仲間と出会う

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Miles Davis.

 

 

 

 

 

 小樽から札幌へ来たのは、両親の職場が札幌のある会社の寮のまかないをやることになって、私もまたそれに付いていったからだと思われます。

 

 あの頃は高度経済成長が続いていた時期で、余裕があったのでしょう、今度も寮生でもないのに、寮の一室を自分の部屋として借りることができ、きっとこの引っ越しの時にピアノを買い替えたのだと思います。

 

 

 バンドの世界は非常に狭いので、新しいバンドに入るときにはほとんど紹介によるのですが、今度の札幌での最後となったトランペットの仕事先はあの頃全盛期だったディスコだったので、誰かの紹介だとしてもどうも場違いのような気もするのですが、とにかく札幌でその頃最大の「釈迦曼陀羅」という、一見ディスコとは縁遠い名前の店でも演奏することになって、その他にもう一軒入っていたとおもうのですが、そちらの方はいつものように思い出せません。

 

 バンマスはギターで自分から「俺はススキノで一番うまい」と豪語していただけあって、確かにギターのテクニック、演奏は抜群でした。そしてアルトサックスのメンバーの人も上手かった。

 

 コンプレックスは大きかったと思います。

 

 今度の職場は今までの深夜零時前に終るキャバレーではなく、零時を過ぎて多分午前2時頃まで演奏していたのじゃないのかなと思うのですが、その頃のススキノのナイトクラブで演奏するバンドでは、朝方の4時頃まで毎日仕事しているグループもあって、いくら20代のエネルギー溢れる年代でも、長くは続かないだろうなあと感じる、そういう長時間のバンドに比べれば、まあ、大分ましだったのだろうと思います。

 

 

 「釈迦曼陀羅」では10代の男の子、女の子がたくさん出入りしていて、今までの職場とはまるで違った雰囲気で、私たちは「ピン子」と言ってましたが、そういうおかしな女の子もごろごろしていて、どうもなじめなかったことは事実です。

 

 

 深夜遅くまで仕事をするという以上に、私自身もうこれ以上ラッパでバンドをやるのは無理だなあと思っていたので、なんといってもススキノで一番だと豪語して止まないギターのバンマスと、かっこいいアドリブを次から次へと紡ぎ続けるアルトサックスの人の演奏にコンプレックスもあって、そんなに長くはこのバンドにいなかったように思います。

 

 

 

 そんな時に小樽で一緒に仕事していたテナーの人が札幌に出て来てバンドを組みたいと言っているという情報があって、私自身もメロディくらいはピアノでも弾けるようになっていたので、小さなキャバレーということもあり、ちょうどよい仕事場だと思い、そのテナーの人の人柄も印象がよかったので、一緒に仕事をするようになったのですね。

 

 そして面白いことには、ここでそれからバンドを止めるまでずっと付き合うことになった大体同年齢のメンバーと出会うことにもなったのでした。

 

 

 ギター、ボーカルの「寺ちゃん」、ベースの「梶」、ドラムスの「若」、少し後で知り合ったテナーの「奥」、そしてピアノの私。

 

 

 この5人でバンドを組んでナイトクラブやホストクラブを回ったこともありましたし、契約が切れて次の仕事が見つからず、いったん解散して各自別々にアルバイトや他の箱に入ったり、またオーデションを受けるために再結成して練習したり、とそれからの仕事は主にこの仲間との演奏が中心になっていくのですが、冷静に振り返ってみると、仲間との仕事の時間は思い入れの感情が入っているので、実はそんなには多くはなかったのかも知れません。

 

 

 最初にピアノ弾きとして入ったキャバレーは前にも書いたように、飲食店ビルの半地下にあったバンドの控室もないような、はっきり言ってキャバレーでも下のクラスのお店で、逆に言えばそれは私のピアノの腕前に相応しい店だったのですが、でもバンドの仲間に大きな声では言えない仕事場でもありました。

 

 なんといっても休憩できる控室がないのですから、たぶん40~45分の演奏、20~15分の休憩というサイクルだったと思うのですが、その休み時間中には廊下、あるいは外にでたりして過ごすことになるわけで、あのとき廊下に立ってタバコをふかしながらおしゃべりをしていた我々バンドマンはさぞかし、そこを通る通行人や他の店のホステスさんやお客さんの目障りになっていたことだと思われれるのです。

 

 うっとおしい奴等がいつも廊下にたむろしている、ときっとお店にも苦情が行ったことでしょうが、しかし現実に休憩できる部屋が無い以上、廊下でのたむろは解消できないわけです。

 

 ここで仕事をしているときに、寺ちゃんの友達で写真家の卵の人が、一人一人の写真を撮ってそれを大きく引き伸ばし、特殊な板のようなものにその写真(53×42cm)を張り付けてくれるのを特別安い値段で請け負う、ということになり私も2枚作ってもらいました。

 

 そのうちの1枚だけは奇跡的に今でも手元に残っていますが、サングラスをかけてアップライトのピアノに向かう斜め下からの顔には、今ではもうすっかりなくなってしまった天然パーマの髪が黒々と輝いており、確かに半世紀の年月が経ったことを見ごとに証ししているのでした。