髪の毛がどんどん抜けてきて

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Ornette Coleman.

 

 

 

 

 カラオケが私の予想を超えてはるかに大きな津波となってススキノの飲み屋街に進出し、それに伴って段々とキャバレーでお金を使って遊ぶという贅沢もいつのまにか縮小気配をみせ始め、お店自体が閉店することが目につくようになり、いやでもこれからの先の身の振り方などもお互いに酒の席でも話題になるようになり、ただ好きだというだけでは生活できなくなることが明らかになってきたその頃のことだと思います。

 

 バンドマンのギャラもここ数年上がることなく、物価の値上げを考えれば逆に下がっているのではないかと思われるほどだったのですが、まだ結婚していない独り身のときには、まあ自分さえ食べていければそれでいいのですから、それほど切羽詰まった感覚にはならなくて、何とかなるだろうくらいの心構えでいたのですが、結婚して自分以外の人と共に家庭を支えなければならなくなると、さすがにそんな呑気なことは通用しなくなるのは当たり前で、実際にキャバレー自体が少しずつ姿を消し始め出すと、当然これでいいのかという自問自答も起きてきて、ちょうどそのような時にはお店の方でも生き残りを懸けて、何か変わったことをしようと考えたのでしょう、私たちバンドが掛け持ちしていた内の一軒が軍隊キャバレーなるものに模様替えしたことがありました。

 

 

 今までさすがにそんなお店はどこにもなく、第一軍隊キャバレーといったって、軍隊経験のある人だけを対象にするのなら、いくらなんでも毎日毎日大入りになるような人数の経験者がこの札幌にいる筈もないことは、誰の目にも明らかなことののように思われるのですが、切羽詰まった経営者にはそのアイデアが救いの神に見えたのでしょう、その路線に舵を切ってしまったのでした。

 

 私たちもそのお店に入ればいやでもそのお店の要求に応えねばならず、どうしてもいやなら契約の解除しかないのですが、もうその当時には自分たちの都合でお店を自由に替えられるほどの余裕はなく、止めるか続けるかの二択しかなかったので、さすがに仲間内で議論になりました。

 

 軍隊キャバレーのその中身はまだ十分には分かっていなかったのですが、その店名から推測すればまず演奏は軍歌が最優先になることは分かり切っているので、それでよいのかというということと、私たちバンドマンの制服もなにか将校なような服を着せられて舞台に立たなければならないような情報もあり、それってまるでチンドン屋じゃないかという強い抵抗の声も当然出て、受けるのか辞めるのか、勿論基本はバンマスが契約するのですが、メンバーが欠けたままではバンドにはならないので、この新しい、私たちから見ると、とんでもない新しいお店の営業形体を巡ってお互いに話し合うことが続きました。

 

 結果は一応メンバー全員辞めること無く、その軍隊キャバレーなるものにも行くことになったのですが、やはり予想通りの軍隊路線でした。

 

 さすがに開店から閉店まですべて軍歌ということはなく(それではダンスが踊れないので)曲に関してはまあ、軍歌が圧倒的に増えたけれど、ダンス音楽はダンス音楽として今まで通り演奏できたので、そう問題はなかったのですが、さすがに将校服に着替えるときには抵抗があって、掛け持ちの他のお店に行くときにはまたそれを脱がねばならず、面倒くさくもあり、他のお店のバンドマンにその服で会うときの恥ずかしさもありで、余計なストレスをため込んでしまったようなんです。

 

 

 いつからかははっきりと分からないのですが、とにかく朝起きて頭の髪の毛を触るとごっそりと髪の毛が次から次へと抜けてくるようになり、少し力を入れると簡単にまた続けて抜けるのでそこでやめるということを繰り返していた時だと思います。

 

 控室であるとき「おい、頭のてっぺんが薄くなってるぞ」とからかわれ、急いでトイレかなんかの鏡で確認すると、なんとはっきりと頭頂部が透けて見えるではありませんか。

 

 今まであんなに毎日毎日髪の毛が抜けていたというか、抜いていたのですから当然といえば当然なのですが、さすがに自分で確認するという発想が浮かんでこなかったものですから、こうして今人から言われて自分の頭頂部のその薄さを認めなければならなくなって、初めて事の重大さを悟らざるを得なくなってしまったのでした。

 

 

 これからの自分の将来への不安と現状の不満とが重なって大きなストレスになっていったのでしょうね。一度髪の毛が抜け始めると止まることなく、毎日毎日大量の髪の毛が抜け続けるものなのです。

 

 始めは事の重大さがわからなかったものですから、思い切り抜いていたのですが、さすがに段々気持ち悪くなってきて、でもやはり髪の毛に触ると抜けるのです。

 

 

  前にも書いたように私は天然パーマの豊かな髪の毛だったので、少しくらいの脱毛なんかとバカにしていたのですが、そういう甘い考えもあってか大した手当もせずにやり過ごしたことも、事を大きくした原因の一つだったと思います。

 

 早めに気が付いてもっと手当をしてやっていれば、と先に立たない後悔をしてみても始まらないのですが、今の自分の中途半端な禿具合をみると、どうしてもそう思ってしまいます。

 

 

 

 いう間でもなく、その軍隊キャバレーなる代物は長生きすることはなく、あえなく戦死してしまったのですが、当然ですよね。

 

 そんな軍歌ばかりがかかっているようなお店に何度も何度も足を運ぶような閑な人がいるわけがありません。

 

 最初だけは、おお懐かしいなとか思ってはみても、高いお金を使って郷愁を慰めてくれるにしては、中途半端でしょうし、それなら普通のキャバレーの方がまだ増しなのではなかったでしょうか。

 

 

 

 

 もうこの頃からバンドの行き先の見通しはどこまでも暗くなって行くばかりでした。

 

C調(しーちょう)なスーさん

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Keith Jarrett.

 

 

 

 

 

  ドラム(太鼓)はバンドのいわば扇の要(かなめ)的存在であって、その太鼓が打ち出すリズムにバンドのみんなが安心して乗っかり、メロディを奏でたり、アドリブを取ったりできているのだと思うのですが、そういうひたすらリズムを打ち出し続ける、まあ、言わば裏方の親分みたいな役割を毎日毎日果たしているせいなのかどうか、どうも太鼓・ドラム屋さんは面倒見の良い、親分肌、或いは頼りがいのある兄貴分的な性格の人が多かったように思われるのです。

 

 考えてみるまでも無くドラムというのは、あの色々な太鼓、シンバルを両手・両足をばらばらに使って、さまざまなリズムを正確に打ち出し続けなければならないのですから、ただ一つの太鼓を片手でトントンと叩くだけのことなら誰にでもすぐできますが、両足を使ってバスドラやスネアを一定の拍子に保ちながら、しかも両手でリズムを刻もうとすると、たちまちどちらかの足が止まってしまい、とても両足、両手を使って演奏するなんていうことの不可能性を悟ることになってしまうわけです。

 

 管楽器は初めからメロディ専門ですから何も言うことはないのですが、ピアノは一応クラシックとは違ってリズム隊の一員として組み込まれてはいても、それなりにみんなのバックでコードの進行を知らせる役目もあり、ソロもそれなりにあり、という役割分担がうまい具合にわかれているので、ただひたすら同じリズムを刻むという太鼓に比べると、リズムとメロディのそれぞれの色彩を受け持つことができる恵まれた立場だとも言えるのでしょうが、太鼓屋さんときたら一日の初めから終わりまで、ただひたすらみんなの後ろでリズムを刻んでいるだけなんですよね。

 

 いや、刻んでいるだけというのは、あくまで太鼓をやったことのない立場の一人としての発言にしかすぎないのですが、どうなんでしょう、実際にバンドにいたときに太鼓の人に向かって「一日中リズムばっかり刻んでいて飽きてこないのかい」なんて聞いたことはないので、果たして太鼓の人が自分のその位置をどう客観視していたのかは、本当のところはわからないままなんですが、しかし、飽きるということはやはり無いでしょうね。

 

 飽きたらもうそれでおしまいでしょうし、なんと言っても好きでドラムを選んだのですから。。。

 

 

 バンドの扇の要(かなめ)の位置にいるだけに、その太鼓がショータイムのときに進行を間違えたら、これはもう決定的なバンド全体の間違いになってしまい、ほんと、エライことになってしまうわけです。

 

 だいたい多いのはショーの時間制限からくる譜面の書き換えで、あちこちをカットしたり、特にダルセーニョの位置の変更とかが間違いやすいんですね。

 

 以前にも書いたように太鼓が間違うとショーの人達にとって重大な影響を与えるので、決して間違えてはならないのですが、そこは人間、ロボットではないのでやはり間違うことはあるわけで、そういうときにはバンマスが強引に引っ張っていって、なんとか全員最後には揃えて終わることになるわけです。

 

 

 ススキノで「スーさん」と呼ばれている名物的な太鼓屋さんがいました。

 

 調子がいいので、調子をひっくり返して「しーちょう=C調」なスーさんで通っていた人なのです。

 

 少し色の入ったサングラスをかけて、全体痩せて小柄な人だったのですが、その話し方、態度がいかにも憎めなく、みんなに愛されていたことは事実だったと思います。

 

 嘘を言うわけではありませんが、安請け合いというか、どうやってもその日にはできないだろうと思われることでも、ああいいよとかなんとか調子のよい返事をしてしまう、そんなところからC調(しーちょう)と言われるようになったのでしょう。

 

 私も同じバンドで仕事をやったことがあります。

 

 噂通りの調子の良い人という印象でしたが、別に意地悪するのでもなく、ススキノでは長くバンドマンをやっている大先輩でしたが、偉ぶることもなく、何でも素直に質問できる関係にすぐなれて、随分助かったことがあった筈なのですが、よく覚えていません。

 

 

 

 

 バンドを止めてから10年かそれ以上経ったときのこと、このスーさんから連絡が入り、昔の仲間たちと飲み会をやろうではないかとの誘いがあり、すぐには気乗りしなかったのでしたが、やはりスーさんの人徳のせいなのか、結局参加することになって随分久しぶりに何人かの昔のバンドマンと旧交を暖めたことがあります。

 

 このときもあのC調のスーさんだったからこその集まりだったと思うのですが、それもそれ限りでのこととなってしまいました。

 

 人それぞれの道でそれぞれが食べていかなければなりません。

 

 

 

 スーさん、今現在はどうしているのでしょうか。

起承転結の無い音楽

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Chet Baker.

 

 

 

 

 

  バンドを止めてからも唯一といってよい親交があった友達に出会ったのは、昨日も書いたあの例の太鼓の人がいたバンドでした。

 

 ここには比較的長くいた筈で、そのときのバンマスはテナーサックスのKという方なのですが、あの頃のテナーの人は皆コルトレーンの影響を受けていたと言っても言い過ぎにはならなかった時代なので、実際このバンマスのアドリブもやはりコルトレーンの影響が誰の耳にも明らかな、またそれが当たり前というか、どんな人にでも必ず影響されたその面影があるのが普通ですし、まずは自分が目標としているプレーヤーへ近づくことが第一目標であってみれば、そっくりさんと言われるほどの腕前に成れば成るほど目標に近づいていることになるのですから、ですので、そっくりさんという名称はバンドマンにとっては一つの勲章にもなるのであれば、そういう意味ではバンマスのKさんは、ススキノでも有数のテナーの一人だったと思います。

 

 リズムがなってない、という手厳しい指摘を受けてそれなりに注意しながらバックの演奏をしていき、凄くよくなったと誉められ、ようやくリズム隊の一員として認められてから間もなくアルトサックスの新しい奏者が入ってきたのですが、彼はその頃のバンドマンには珍しく自分の演奏を常にテープに取り、後から聞き直してこれからの自分の演奏をより良くするための努力を惜しまない、そういう人だったのでした。

 

 私なんかは自分の演奏をテープに取って後から聞き直すなんて、とても恥ずかしくてそんなことをしようなどとは全然思わなかったのですが、そういう熱心に自分の演奏を聞き直して少しでもより良い演奏を目指し続けているそのアルトの彼に私は感心もし、何かフイーリングも合ってすぐ彼と仲良くなることができたのでした。

 

 

 当時は今でいうフユージョン、あの頃はクロスオーバーと言ってましたが、それらの音楽が4ビートのジャズを上回っていて、私もそれなりに聴き込んではいました。

 

 マイルスが「サイレントウエイ」というそれまでとは全く様相の異なる、4ビートから離れた8ビートの世界へ入ったことを告げる記念碑的な作品を発表したとき、批評家の間では賛否渦巻く声がゴウゴウと上がり、私もまずは買ってみようとそのレコードを購入して聞いてみたのですが、最初の音からして何かつかみどころのないもやーとした感じがあり、それがいつまでも晴れることなく、これといった起承転結のはっきりした動きのないまま終わってしまう、という印象だったように思います。

 

 今まで聞きなれた、主題があり、その展開があり、途中にはっきりとしたサビの部分、聞かせどころがあり、その余韻を保ったまま、また主題へと戻るという、聞きなれた起承転結のある曲の構成を全く離れた、そのサイレントウエイという曲名に相応しい演奏にはこれといった劇的な起伏は何も起こらないまま、最初から最後までもや~とした印象を保ったまま終わってしまうので、どう言ったらよいのか、何を言いたいのか、何をやりたいのかがこちらに伝わらずに終わってしまったという感覚だけが残り、何とも不思議な、ある意味物足りない、これでいいのかという終わり方をした曲なのでした。

 

 それからのマイルスは「ビッチーズブリュー」という2枚組のアルバムを出し、完全に4ビートから離れていって二度と戻って来なかったのですが、私自身はここまでは付いていけてもそれ以降のマイルスのアドリブには残念ながら魅力を感じていませんね。

 

 

 

 クロスオーバーが盛んになったのと同時期なのかどうか、今いちわからないのですが、シンセサイザーミュージックの一つとして「喜太郎」なんかのこれまた茫洋とした音楽もそれなりに耳にすることが多くなり、私自身はそのシンセサイザーの音色とそれらが構成する音楽を余り抵抗なく聞いていたのですが、ある日の控室の事、バンドに入ってそんなに日が経っていないアルトの彼が、いつも控室でイヤホンを使って何かの音楽を聞いているのが気になったのでしょう、バンマスが彼に何を聞いているのだと訊ね、そして彼がイヤホンを外してその曲をみんなの前で披露したことがあって、その曲が喜太郎のあの茫洋としたシンセサイザーだったのですね。

 

 すぐにバンマスが俺はこういう起承転結のない音楽は音楽だと思ってない。嫌いだ。と彼に向かって言い放ち、控室を出て行ってしまった事がありました。

 

 

 確かに喜太郎の作る曲は言い方は悪いのですが、どれもこれも似たような確かに起承転結の無いというか、感じられない曲ばかりという印象は免れないところなのですが、私は嫌いということなく、それなりに疲れたときのリラックス剤の一つとして聞けばよいのではと思っていたので、そのときのバンマスの明らかに怒った言い方はちょっとした驚きで、それはそれで一つの正直な反応なのですから仕方ないとしても、アルトの彼には少し酷だったのじゃないかと彼に同情したのでした。

 

 

 新しい形式を受け入れるのには人それぞれの反応と反感、賛同が必ずあるのでしょう。

 

 起承転結の無いと思われる、或いはそうとしか感じられない音楽はその先どうなっていくのでしょうか。

モンクは恩人だけれど好きにはなれなかった

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Horace Silver.

 

 

 

 

 

 前回書いたようにセロニアス・モンクは私をジャズに導いてくれたいわば恩人なのですが、彼のピアノ演奏には結局馴染めないというか好きになれないまま今日に至っています。

 

 モンクのピアノは一口で言うと不協和音を強調したあくの強い個性豊かな演奏であって、好きな人には徹底して好まれ、嫌いな人には見向きもされないという極端な評価があるように見受けられます。

 

 私自身はトランペットからピアノに転向して、いくつかのバンドを経て、前に「あんたは指は回るけれど、リズムが全然なっていない」と厳しく指摘されたその太鼓の人から、「モンクが好きなのかい」と聞かれたことがあって、どうしてかと聞くと、不協和音の使い方がモンクとよく似ているという返事が返ってきて、いやそれはたまたまそう聞こえるのかも知れないが、モンクは好きではないと答えたことがあったのですが、早い話、不協和音を使いたいときの手っ取り早い方法として、ある音のその隣の音(半音になる場合はあまりに鋭すぎるので、ちょうど2全音、ドの上ならレの音)を重ねて弾くと、必ず不協和音になるので、そういう感じでアドリブのときには意識して弾くことがあったので、その響きがモンク風に聞こえたのだと思われるのです。

 

 ピアノに転向してクラシックの先生に付いて勉強していくということは、必然的にクラシック音楽にも親しむことにもなるのですが、そういう感じで2年か少し教えてもらった筈なんですが、やはりこの期間の勉強の影響はそれなりに大きかったようです。

 

 

 モンクのピアノのテクニックそのものは誰が聞いてもピアノを専攻している子供にも及ばない、と思えるような程度なのですが、しかし世の中にモーツアルトショパンを弾けるピアニストは掃いて捨てるほどいても、モンクのような音楽を作れる人はモンクの他には一人もいないことは明白なので、モンクのピアノのテクニック云々は全然問題にならない訳です。

 

 何より素晴らしい作曲の才能があります。

 

 私がマイルスの演奏で体のすみずみにまで電流が走った衝撃的な「ラウンドミッドナイト」も彼の作曲で、不滅のスタンダードナンバーとなっていますし、バンドの中でもよく演奏した「ストレートノーチェイサー」とか、たくさんの名曲の数々が彼の手から生まれています。

 

 そういう才能に恵まれた一流のジャズミュージシャンであることは誰もが認めるところなのでしょうが、人の好み、好き好き、嫌いというこの感性、感情はどう仕様もないもので、必ず何かに傾くもののようなのですね。

 

 評論家の批評なんかではモンクのソロ演奏を絶賛している人が多く、私もレコード買ってみようかなと気持ちが傾いたこともあったのですが、やはりあのごつごつしたタッチにはどうしても馴染めないまま、モンクのレコード、CDは一枚も持っていません。

 

 

 必ず比重が傾くと言ったのは私自身からの体験からきた言葉ですので、そうではないと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、それにしても耳に入ってくるその音楽をいつもいつも好きになる、ということはあり得ないことだと思うんですよね。

 

 ジャズ喫茶で聞く音楽、演奏家全員を素晴らしいと感じて満足して帰る、というそういう日もたまにはあるかも知れませんが、しかしそれが必ずいつも続くということは多分あり得なく、嫌いなミュージシャンがいて当たり前だと思いますから、ジャズの世界の中でこの人にはどうしても馴染めない、好きになれない、嫌いだという感性、感情が必ず生まれてきて、そして嫌いな人の音楽を誰かが誉めているから、じゃあ聞いてみようという姿勢から、もしかしたら素晴らしい体験をする機会が訪れることがあるのかも知れませんが、それよりは好きな人の音楽に時間を割いたほうがいいと思う方も又自然な流れのように見えるのです。

 

 

 

 ジャズピアノでは私はビル・エバンスが大好きなのです。

 

 エバンスのピアノとモンクのピアノでは、これが同じピアノなのかと思うほどの断絶を感じるのですが、それはモンクの否定ではなく、ただ単に私自身の感性がしからしめるところの、いわばある種の傾きでしかなく、私の好き嫌いに関係なくモンクの音楽はそのままで誰にも真似のできない独自の色彩を放っているのですから、それはそれでよいわけです。

 

 

 エバンスの音楽についてはたくさんの人が取り上げ、その音楽の具体的な仕組みにまで解説しているような動画もあって、ただ単なる印象批評に終わっていないそういう時代に今はなっていますが、それはそれとして、私もエバンスの音楽については語りたいところがありますので、そのうちにこのブログに書かせてもらいたいと願っています。

楽器が人を選ぶのか

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Aga Derlak.

 

 

 

 

 

 クラシックのオーケストラでは実に様々な楽器が使われていて、それらの共同作業で一曲が演奏されるので、よく人が楽器を選ぶのか、楽器が人を選ぶのかが興味深く、ある意味真剣に取り上げられていて、そういう本も出ていることは知ってはいるのですが、ジャズやポピュラー音楽ではそれほど楽器の種類はないので、あまりそういう議論は聞いたことがないように思います。

 

 私が経験したバンドの中では、ピアノ、ベース、ドラムス、トランペット、トロンボーン、テナーとアルトのサックス、そしてギターと唯一のビブラホーンの計9種類、ビブラホーンを除けば8種類しか無いので、人が楽器を選んだのか、楽器が人を選んだのかの議論がほとんど成り立たないような、極めて狭い範囲だと思われるので、このようなことをお互い真剣に話し合ったことはなかったように思われます。

 

 

 それでもその人がその楽器と縁を結んだそれらの動機を聞けば、また違った思いなども湧き出て来るのかも知れません。

 

 そもそも私がジャズを知り、興味を持ち、ついには上京してバンドに入るにまで至ったその動機というのは、高校1年の時の美術部の合宿でイヤホンから聞いた「モンク」という謎めいた名前と共に聞こえてきた、今までになかった奇妙な音楽から始まったことなのでした。

 

 ジャズという名前の音楽があること、ジャズにもモダンとモダンではないジャズがあること、そのモンクなるピアニストの音楽はモダンジャズに属すること等々、少しずつ後から分かってきたことなのですが、何せジャズなる音楽がラジオから聞けることはほとんどなく、それでも新聞のラジオ蘭を丁寧に見ていくと、1週間の内にいくらかの数の定期番組もあることがわかり(現在よりはその頃の方がNHKも民報もジャズを取り上げていたと思われます)、高級なオーディオ機器やLPレコードを買うことができるような家庭環境でもなかったので、45回転盤のレコード(ドーナツ盤)を探し求めたりして、徐々にモンク以外の演奏者を知っていったのでした。

 

 そのうち自分でも楽器の演奏がしたいと思うようになってきて、その頃はテナーサックスに魅かれていたのですが、調べてみるとこの楽器、テナーに限らずアルトサックスも値段が高いということがわかり、我が家の家計ではどうやっても買ってもらえそうにないので、値段の安いトランペットを親にねだって無理に買ったもらったのでした。

 

 ですので、たまたまマイルスの「ラウンドミッドナイト」を聞いて文字通りに全身痺れたその体験から、トランペットを本当にやりたいと思うようになったのは事実ですが、最初はサックスという楽器に魅かれてもその値段が高いという経済的理由から諦めたわけですから、トランペットに自分が選ばれたということは言えないように思われるのです、

 

 高校に吹奏楽部とかのクラブがなかったということが、結果としてよかったのか悪かったのか、それは今になってみてもよくわかりません。

 

 その当時に吹奏楽部があって、そこでトランペットを吹いていたら自分の限界がよく見えて、ジャズミュージシャンになろうなどとは思えなかったのかも知れないし、逆にもっとやりたいと思ったのかも知れないし、それはそれでどうなったのかは全く見えないことだからです。

 

 とにかく値段の高いサックスを諦めてトランペットを選んだということがあるので、その限りではトランペットが私を選んだとは言えないでしょうね。・・・まっ、こじつければある意味、選ばれたのかもしれなせんが・・。

 

 

 バンドにいて仲間たちとそのような、どうして今の楽器をやるようになったのかなどと話し合ったというような記憶がないので、あるいは酒の席かなんかではそういう話も出たのかもしれませんが、深く心には残ってないので、きっと真剣にそういう話し合いをしたことがなかったのでしょう。

 

 

 オーケストラなんかでは、いかにも楽器の方が人を選んだとしか思えないようなエピソードがたくさんあるようなのですが、私が約15年バンドマンとして仕事をしていた限りでは、どうもそのような典型的な、いかにも楽器の方からその人がその楽器をやるように選ばれたのだと納得できる、そういう明らかな事例には出会えなかったように思われます。

 

 ただドラムスの人、太鼓の人を思い出すと何か面倒見の良かった人の割合が高かったような、意地悪い言い方をすると少しお調子者というか、いいかげんなところが目に付くというタイプの人が印象に残っているのは事実ですね。

 

 そのことについては又書いてみたいと思います。

 

 

その時には分からなくても

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Art Farmer.

 

 

 

 

 LPレコードが高かったので、せいぜい月に一枚か二枚位しか買えなかったとき、レコード店で視聴させてくれるようなシステムもなかったので、レコードを買おうとするときには結局ジャズ喫茶で聞いたレコードが一番頼りになったのですが、あとは雑誌のレコード批評を参考にして買うことが多くなり、そうするとどうしても当たり外れがでることになるのですが、一番極端だったのがアート・ファーマーの「アート(ART)」を買ったときのことでした。

 

 批評家のその好意あふれる批評にすっかり惚れ込んだ私は、その当時のトランペット奏者は私にとっては何といってもマイルスであって、それ以外の人はあまり視界に入っておらず、アート・ファーマーという演奏者もあまり知らなかったこともあり、どういう音色のどういう演奏スタイルなのか、期待する心に満ち溢れてレコードに針を落としたのですが、最初の数小節ですっかりその期待は裏切られ、何だこれはひどい、騙されたと愕然とし、そうかといってもう買ってきてしまった以上返すわけにもいかず、高いLPレコード代のこともあり、腹も立つし、がっくりもきて、このレコードを誉めちぎっていた批評家を心底恨んだものでした。

 

 

 このアルバム「ART」はそれから一度も聞くこともなく、そうですね、約5,6年はお蔵入りしていたと思います。

 

 

 月日が経つうちに私の好みも幅がひろがり、トランペット奏者はマイルス以外にもすてきな人がたくさんいることも分かり、アート・ファーマーのようなどちらかと言えば音色重視の傾向の方に徐々に比重が傾いていったこともあって、長い間お蔵入りしていた例の「ART」を聞いてみようと思い立ち、期待と不安の入り交じった心を抱きながら針をそのレコードに落としたのでした。

 

 するとなんと、5,6年前には騙されたという激しいマイナスの感情しか湧き上がってこなかったそのアルバムに、一気に引き入れられていってしまっている自分がいるのでした。

 

 トランペットなのに肌に突き刺さるようなざらざらした音色は一切なく、ほとんどフリューゲルホーンのような幅のある、肉厚の触感さえ感じさせてくれる柔らかな暖かな音色が全編を蔽い、そうかといって単にBGMで流れてくるような甘さ一辺倒でもなく、確かに骨格があり、筋が通り、これが私の音楽なのだと明瞭に主張してくるエゴも感じられ、特にアップテンポの曲での小気味のよいフレージングには、体が乗せられてどこかへと運ばれていくようなドライブ感もあり、全曲すべて退屈することは一切なく、あっという間に「ART」は終わってしまったのでした。

 

 なんということでしょう!

 

 

 あのときの批評家の批評は嘘ではなかったのです。

 

 それは誰のせいでもなく、この私が変わったことによる変化なのでした。

 

 「ART」それ自身は私と共に5,6年の歳月を過ごしながら、その間少しも変わることはなかった筈なのに、それを聞く私の心、その音楽を受け入れる私の心がすっかり変わってしまっていたのでした。

 

 文字通り「ART」は私の中で「ART」に変貌し、それ以降今日までこのアルバムは私にとっての愛聴盤となっていつまでも、もっともレコードからCDへの変換はありましたが、手元にあってアート・ファーマーの音楽を奏でてくれているのですね。

 

 

 音楽の好みの変遷は確かに色々とありましたが、一枚のレコードに対するその印象がこんなににも劇的に変わったのはこの「ART」以外にはなく、そういう意味ではこのアルバムは私にとっての特別な一枚となって今に至っています。

下を見て見えなければ・・・

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Roy Haynes.

 

 

 

 

  仕事としてキャバレーやクラブをたくさん巡ってきましたが、実は自分のお金を出してキャバレーで遊んだことは一度もないんです。

 

 あの頃のススキノの高級クラブには座るだけで〇万円とか言われている、とんでもない高級クラブもあったようなのですが、そういうところはさすがに全く縁がなくて、いったいどういうお店なのか、どういう美人の女の子がいるのか想像もできなくて、具体的に書くことはできないままなのですが、そこまではいかないクラブでもまずバンドマンの安月給では遊びにいくことはできなかったと思いますし、仕事として出入りしていれば自然と自分からお金を出して遊びに行こうとは思わなくなるようなんですね。

 

 誰でも仕事をしていればそれなりのストレスをため込むでしょうし、感情の揺れ動きも必ずありますから、仕事帰りにちょっと一杯という気分になることは、昼間の仕事であろうと夜の仕事であろうと共通の心の動きでしょうから、私も飲むに行かない訳ではないのですが、普通仕事を終えるとキャバレー自体が閉店してますし、もっと遅く営業しているクラブも今いったような理由で行くことも無く、大体はバンドマンが集まる安くて美味い焼き鳥屋とか居酒屋、たまには少ししゃれたお店でBGMのジャズを聞きながら話がはずむという位が関の山で、遊ぶことに関してはサラリーマンよりも奥手だったのかも知れません。

 

 

 男性が行くことはない、というか入店させてもらえない特殊な店にホストクラブがあります。

 

 けれど表玄関から入っても客席に座ること無く、楽屋かステージに直行する私たちバンドマンだけはその例外で、いつもの華やかなドレスや着物姿の社交さんではなく、きちっとしたスーツに身を包んだ若い、或いはそれ程は若くはないホストさん達が客としての女性をもてなすところを横目にダンス音楽を演奏するのですが、別に違和感などはなく、いつものように普通に演奏して帰ってくるわけです。

 

 キャバレーで一番の指名数を誇るトップの社交さんは、大体飛び切りの美人だということはほとんどなくて、顔の美しさはそれなりになければならないのですが、それよりも接待とその後のアフターサービスに努力する才能がものを言うわけで、えーあの人がと言う女性がトップのこともありますから、人は見かけにはよらないようなのです。

 

 でもホストクラブではやはりハンサム(今でいうイケメン)なホストがやはりもてるようで、ススキノに何店ホストクラブがあの頃あったのかもう今ではわからなくて、でも未だにずっと変わらない場所で営業しているお店もあり、それぞれの栄枯盛衰を乗り越えた店だけが生き残っていることはどの世界でも同じなのでしょうが、基本キャバレーやクラブよりもホストの方が顔の良し悪しが重要だったように私には見えました。

 

 あるホストクラブでたまたま一人のホストと一緒にトイレに並んだとき、彼が実におもしろい、初めて聞く一つの真実を私に話してくれたことがあります。

 

 彼が言うには立って小便をするときに自分のお〇〇チンが見えないときは、すでにもう肥満となっている証拠だと言うのです。

 

 そのころ20代の私には自分のお腹がせり出して自分の目から下を見たときに、自分のお腹が邪魔になって自分のお〇〇チンが見えなくなるなんていう事態が想像できなくて、そんなことが実際起きるのだろうかと心底疑問に思ったのでしたが、あにはからんや、歳を重ねるに連れ、本当に彼の言葉が真実だったとわかって来て、あのときの彼はすでにそういう体験をしたほどの、精神的には私よりずっと大人だったのだなあと思うのですね。

 

 ホストクラブではなく、女性が男性を接待するという普通のクラブではピアノトリオかせいぜいそれにギターかサックスが加わるカルテット(4人編成)での演奏が多くて、どちらかと言えば優しくおとなしい感じの曲が求められていて、キャバレーでの演奏とは異なる静かな緊張が私たちバンドマンにはあったように思われてきます。

 

 

 それもいつの間にかカラオケが浸透し支配するようになってきて、私たちバンドマンの仕事はどんどんなくなってきたのも、諸行無常の一つの姿形ではあったのでしょうが、やはり残念なことでした。