芸能「山城組」の衝撃

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Janis Joplin.

 

 

 

 

 

 芸能「山城組」の合唱を初めて聞いたとき、その圧倒的な声量で地の底から湧き出てきたような、或いは天から降り注ぎ続けて止まない土砂降りの雨のような力強さに、心底から体が震え聞いていて思わず「おおー」と叫んだ強烈な体験があります。

 

 元々はブルガリア民族音楽、その合唱を引き継いで生まれたもののようですが、世界でも稀なその民族音楽としての合唱こそ大地の母が産んだとしか思えない、力強い魂を揺さぶる音楽だったので、ジャズ一辺倒で聞き続けてきた私にとってはジャズ以外で初めて直に体と心を揺する、皮膚の表面に電気が走る得難い体験となり、すぐその印象を「山城組」に送ったところ、「山城組」が発行している広報誌のようなものに掲載され、その記事をずっと持っていたのですが、たまたまの引っ越しでそれら全てを処分してしまったので、残念ながらその手記をここに載せることはできないのですが、とにかくそのような人生の内でそう何回もない極めて稀な体験を、芸能「山城組」の合唱から受けたのでした。

 

 

 音楽って美術と違って聞く瞬間ごとにその音は消え去っていくのですが、残像というかそれら消え去っていった音の何らかの印象は止まり続けているので、曲が終わってもそれらの連続的な印象から曲の全体像が言葉では的確に表現できなくとも、自分の中では確かに一つの曲が終わったという総合的な判断ができているのだと思われるのですが、その消え去りつつある、けれど次から次へと湧き起ってくる音のその根底へと意識が明瞭に指向するそのとき、何かしらの感動が、音楽でしか得られない微妙な体験が表に出てくるのではないかと想像するのですが、どうでしょう。

 

 「山城組」の合唱は例えば文部省が主催する合唱コンクールで歌われるような合唱とはまるで次元が違っていて、地声そのものの洗練される以前の太い粗削りそのものの声が重なり合い、響き合うので初めて聞く時には何か合唱で造られた丸太のようなもので体を叩きのめされるような、そんな強烈な忘れられない印象体験を伴うと言ってもよいと思います。

 

 しばらくはこの山城組とそのルーツであるブルガリア民族音楽に夢中になりました。

 

 勿論それ以降もそのときの印象が完全に消えるということはなかったのですが、やはりジャズが好きな私にとっては仕事とは関係のない合唱そのものと向き合うことは長くは続かず、いつしか聞くこともなくなって、ふと思いついて聞いてみても、さすがに最初に受けた圧倒的な迫力はもう感じられなくなり、いつの間にかこうして今に至っているのですが、でも芸能「山城組」の合唱は私にとっての得難い音楽体験の一つとなったことは事実であり、いつまでも心の底に残り続けていくだろうなあとは思っているわけです。

 

 

 

 ふとこの芸能「山城組」の合唱を思い出したので、その忘れられない体験を少し書いてみました。

何をどのように選べばよいのか悩みは尽きない

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Chet Baker.

 

 

 

 

 

  バンドとバンドが交代するときのチェンジ曲は大体どこの店に行っても、みんながすぐ演奏できる、誰もが知っている、キーもほとんどが一定のありきたりの曲という暗黙のきまりがあって、そういう意味では苦労しないのですが、その反面何十回、何百回と弾いたり、吹いたりするのですから当然飽きてくるわけです。

 

 今でも「ベサメムーチョ」というラテンの有名な曲なんかは、例えばジャズミュージシャンが取り上げた意欲的なアレンジだとわかってはいても、その曲名を聞く(見る)だけで拒絶反応に近い反応があって、とても聞くにはなれないほどです。

 

  バンドマンはそれぞれメモ帳と呼んでいるスタンダード曲を書いてある五線紙ノート(小さい片手に入るくらいの)を持ち歩いていて、他の人のメモ帳を見せてもらって自分にはない曲を追加したり、また逆のこともあったりという具合にお互いに助け合っているのですが、私が一番困ったのは、おたまじゃくしの間違いはほとんどなくてもコードネームがそれぞれのメモ帳で随分ばらばらで違っていたことでした。

 

 写す方の自分に正確なジャズ理論の基礎がないものですから、Aさんのコード進行とBさんのコード進行のその差、どうしてそのように進行していくのか、どうして同じ小節なのにこんなにコードネームが違ってくるのか、どちらが正しく、どちらが間違っているのか、それとも二人共が正しく、あるいは二人共が間違っているのかの判定ができないまま、初めはただひたすら貸してもらったメモ帳を写すだけだったのですが、自分でそのコードを一応ピアノで弾けるようになると、これは明らかにおかしい、すごくへんな響きがするとそれなりにわかるようになり、先輩から写し取ったメモ帳を訂正しながら弾くことが出来るようになってくるわけです。

 

 

 渡辺貞夫アメリカのジュリアードに留学して帰国してからその理論を易しく書き表してくれたジャズ理論書をベースに、1年間他のピアニストと共に学んだのはもうピアノに転向してから随分後のことで、それまでは今言ったように手探りで理論の基礎を探していた状態でしたので、この1年間の勉強は本当に目から鱗がぽろぽろと剥がれ落ちる経験が続いたわけですが、そこで先生から宿題が出されて次回に自分と友達の解答を見ると、やっぱり一人ひとりの個性、性格がおたまじゃくしの配列、コード進行にでてくるもので、絶対的な一つしかない数学のような解答は音楽ではあり得ないことがよくわかり、実感し、納得したものでした。

 

 コード進行やコードそのものの選択は一応の基礎ができれば、あとは基本、演奏者の自由になるので一見選択の幅が広がるように見えるのですが、逆に言うとその広い選択の場から何をどのように選ぶのかが問われてくることになるので、ピアノやギターのようにメロディとハーモニーの二つを同時に演奏できる楽器の場合、その選択の自由に悩むことにどうしてもなります。

 

 その先生の元で勉強しているときの宿題の解答で、先生がこれは良いと思ったものが手元に残されていて、私たちはそういう先輩の解答を見せてもらうのですが、さすがに選別されただけのことはあって、それらは皆洗練された響きのするものばかりで、凡才たる二人はためいきをつくばかり、ということが多かったのです。

 

 そういう私たちにためいきを付かせた一人に私も知っているギター奏者がいて、彼はそういうコードの選択、演奏の技術に対してあまりにも真剣過ぎた、神経質だった、その両方だったのでしょう、一時精神のバランスを崩して精神病院に入院してしまったほどの人がいました。

 

 私も悩み続けましたが精神のバランスを崩すほど突き詰めたことはないので、そのギターの彼氏に対してはある種の羨ましさを感じこそすれ、相方のピアノの彼とそういうふうにはなれないなあとまたもやため息をつくのでした。

 

 

 今現在は理論書にしてもあるいは実際の指導にしても、あの当時とは比較にならないほどの実践の場が用意されているようなのですが、それはそれで選択の幅がありすぎて、逆に何を選べばよいのか、その悩みが多すぎて困ることになっているのかも知れませんね。

 

 

 

「風車(かざぐるま)」と「メリージェーン」

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Miles Davis.

 

 

 

 

 

  札幌のバンド時代を振り返ると仲間5人での演奏活動の時間はそんなに多くはなかったと思うのですが、なんと言っても気心の知れた者通しのバンドなのですから、楽しく演奏できたことは間違いなく、その代わりと言ったら外れてしまうのかも知れませんが、キャバレーでの安定した契約ではなく、短い期間で次から次へとオーデションを受けなければならなかった、ナイトクラブ特有の事情のある、なかなか厳しい時期でもあったことは事実です。

 

 キャバレーとはまるで客層が違うナイトクラブではキャバレーのように社交さんが売りではなく、バンドそれ自体がお客を呼ぶ重要な要素でもあるので、お店のほうでも同じバンドが長く続くとお客さんに飽きられることもあって、その反面、人気のあるそのバンドがいなくなれば確実に客が減るであろうことが見込まれる場合には、勿論長期に渡って契約が続くのでしょうが、そういうバンドは稀なので、大抵数か月或いは半年単位でバンドチェンジのためのオーデションが行われ、それに無事合格したバンドだけが契約を結ぶことができるわけで、そのオーデションも店によっては四つも五つもバンドが競うことがあって、これはなかなかの緊張を伴う事態でもありました。

 

 

 

 私たちのバンドでは「寺ちゃん」と呼ばれているボーカルとギターの彼氏にバンマスをやってもらい、彼は当時あちこちのお店のマネージャーとかにも顔が広く、時にはその店でのオーデションは初めから出来レースというか、契約されることが決まっているのに形だけの演奏をやったこともあって、そういう裏技も使うことができるほどの頼りがいのあるバンマスでもありました。

 

 

 ナイトクラブではなんと言ってもボーカルが花形です。

 

 歌が歌えてそれに加えて何か楽器ができればそれに越したことはなく、そういう意味でも寺ちゃんはバンドの中心的人物でもあり、また性格的にも親分肌というか人の面倒もよく見るバンマスには打ってつけの人だったのでした。

 

 

 

 色んな歌を歌った筈なんですが、当時の洋楽のディスコナンバーなんかもあったでしょう、でも私の中に色濃く残っている彼の歌に、松山千春のそんなにはヒットしなかった、あまり多くの人には知られていなかった「風車(かざぐるま)」という曲があって、この曲が私にとって印象深いのは多分、間奏に短いピアノのソロが入っていたことが大きな要因になっていると思うのですが、その外にもサビの部分で爆発的にオクターブ上げて歌い上げるところが何か心を揺すぶられたようなのですね。

 

 松山千春は実に音域の広い伸びやかな高音のでる、才能あふれた歌手の一人だと思いますが、特に初期のころはヒット曲を連発して北海道、足寄(あしょろ)、帯広の名前を広めてくれた人でもありました。

 

 

 随分後でカラオケでこの風車を歌ってみたときに、サビの部分の高音を出すのは簡単でないことがわかり、その当時の寺ちゃんはそんなそぶりをみせないで楽に歌っていた(ように見えた)ので、やはり歌手として喉を鍛えている人にはかなわないなあと感心したものです。

 

 

 

 あとこの「風車」の外に印象深い曲として「メリージェーン」があります。

 

 ナイトクラブに遊びに来る人に様々なタイプの人がいたことは間違いのないことですが、閉店間近のダンスタイムが誰にとってもその日の最後のチャンスの時間であったことは事実で、そのときの定番がなんと言っても「メリージェーン」だったのです。

 

 この、つのだひろ作詞作曲の「メリージェーン」は日本人が作詞した曲としては珍しく全て英語で書かれていて、まあ、あれですね、らしく聞こえればよいわけで、歌い手としての正確な発音は誰も問わないのですから、ひたすらムードを盛り上げていけばそれでお店としてはOKなんですね。

 

 この曲の間奏はギターでもサックスでもそれにふさわしい、まとわりつくようなスタイルでアドリブを取っていくことが求められているのですが、やはりレコードでさんざん聞いているその演奏が耳に残っているので、それから完全に離れた全く独自のアドリブをするのはクラブでは難しく、やはりどこかで聞いたことがあるなあと思わせるくらいのフレーズが入っている方が客からももてるので、そういう意味ではアドリブコピーは重要になってきます。

 

 でもこのメリージェーンの間奏でのアドリブはかなり難しいです。日本の一流ミュージシャンの演奏ですね。

 

 

 

 

 

 そしてススキノも時代の流れに乗って今まで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなり、ナイトクラブで遊ぶというスタイルも段々形を変え、クラブもバンドもいらなくなるような時代にはっきりと流れをかえつつあることが、身近になってきたことを感じる時になってきて、私たちのバンドもそのままの仲良しバンドではやっていけない季節に入ってきたのでした。

40年ぶりに新聞記事で再会する

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考える人。

 

 

 

 

 

 去年、地元の新聞の札幌圏の記事の中に思わぬ人を見つけて驚きました。

 

 私がお世話になったバンドのバンマスで、なんとバンドを止めてから奥さんとの二人で長く高齢者の施設慰問を続けているという内容だったのです。

 

 元バンマスのHさんはテナーサックスで奥さんはキーボードを担当し、高齢者のよく知っている歌謡曲とか唱歌みたいな曲を演奏しているようなのですが、なるほど、人に喜ばれるボランティア活動を奥さんと続けられているその事実が、そのHさんの私の知らない内実の一端なのだなあと思い知らされて、人の多面性を改めて知らされたことでした。

 

 

 バンマスのH さんを思い浮かべると真っ赤なブレザーを着てテナーを持ち、ステージでカウントを取る仕草と、掛け持ちで他の店へとせかせかと歩いているその姿が見えてくるのですが、ちょうどこのころから「カラオケ」が明らかにススキノ全体に浸透してきて、時代が変わってきているなあと思えるほどになってきたのと、それと同時にキャバレーで遊ぶという客自体が減ってきて、その肝心のキャバレーが閉店するという私たちバンドマンにとっての死活問題も徐々に現れ出した時期でもあって、いよいよ自分の将来について真剣に考えなくてはならない情勢になった、というそのこともまた思い出されてきます。

 

 「カラオケ」が正確にはいつごろから現れだしたのかはわからないのですが、最初はこんなもの大したことはない、という印象でしたね。

 

 勿論テープだったのですが、何というのかカセットデッキの大きいのと言えばいいのか、出初めは一つのデッキに4曲入っていて、それを再生して歌うというスタイルだったと思います。

 

 ですので今のように好きな曲を次から次へと歌えるというような便利なものではなく、そうかといって大量のデッキを持ち歩くこともできず、その内8曲収録とかのデッキも出てきても基本同じようなスタイルで歌うのですから、例えば一人のピアノがいて、その彼にリクエストして客が歌うという従来のスタイルから見れば、まだまだ不便で操作も面倒だったので、私なんかはこのカラオケなど怖くはないと、そう高をくくっていたのでした。

 

 

 

 しかし器械の進歩というのは凄まじい速さで進行していくものなのですね。

 

あっという間にこのカラオケなる歌伴そのもの器械がススキノを占領していって、気が付けば今まで入っていたスナックなどでの弾き語りとかの需要もなくなり、大勢のピアノ弾きの仕事を奪ってしまっていったのでした。

 

 確かに一度器械を入れればその後はテープの補充だけですむし、何より客から一曲いくらと料金をとって歌わせるという今までにない、新しいシステムも出来上がり、それまでの高い演奏者へのギャラも払わなくともよくなったのですから、お店にとっては二重に良いことになったんですね。

 

 

 私自身は歌を歌えるような才能も無く、ただピアノを弾くことしかできなかったのですが、実際歌を歌えたらピアノ弾きにはたくさんの仕事があって、随分もてたのです。

 

 カラオケが浸透する前は少し大きなスナックや小さ目のクラブなんかでは、バンドを入れるほどでは無いけれど生の音が欲しいということで、ピアノの弾き語りの仕事はたくさんあって、私なんかも歌が歌えたらなあと、そういう弾き語りのピアノをうらやんでいたものでした。

 

 しかし諸行無常。全ては容赦なく移り変わっていきます。

 

 このHさんと一緒に仕事をしている間は大丈夫だったのですが、他のバンドに移って1年後くらいだったでしょうか、とうとうそのお店が閉店したのですが、なんとその後をこのH さん始め何人かのバンドマンが共同出資して引き継いだ、という話を聞いたのです。

 

 共同出資といっても百万円単位ではありません。

 

 何せキャバレーは社交さんがいなければ商売にならないのですから、数十人の女の子に支払わなければならない人件費は膨大なものでしょうし、その他のアルコール類、等々毎月支払わなければならない必要経費、自分たちの給料、そんなことを考えれば千万単位のお金が必要になると思うのですが、どこのそんな大金を隠し持っていたのかと妬み、そねみの感情が湧き出てきてもおかしくなく、私たちバンドマンは不当に搾取されていたのかも知れませんね。

 

 しかしやはりというか当たり前というか、閉店するにはそれなりの事情があって閉店するのですから、それをまた軌道にのせることは容易なことではなく、ましてや素人の共同経営であればますます困難さが倍増するでしょうし、結局そんなに長くは持たずに今度は本当に閉店してしまいました。

 

 H さんが投資したであろうそのお金は無になった(と思われるのです)のでしょうが、他人のお金の事なので正確な事実はわからないままです。

 

 

 

 

 そういういきさつがあったので、40年ぶりに新聞紙上で再会した元バンマスHさんのボランティア活動には少しばかりの感慨が湧き起ったのでした。

♯(シャープ)と♭(フラット)

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Don Cherry.

 

 

 

 

 

 ♯ はその音を半音上げる記号で、♭ は逆にその音を半音下げる記号ですが、この記号がたくさん付いているキー(調)になればなるほど、ピアノが弾きずらくなってくるのは、やはり馴れてないからなので、レッスンを受けていたとき、先生にそのことを尋ねてみると、「全然変わらない。どんなキーでも同じ。」というような言葉が返ってきたことを覚えているので、これはやはり子供の頃から譜面を見続けて練習していれば、記号の多い少ないは何の障害にもならないようなんです。

 

 

 前にも書いたのですが、トランペットでピアノの譜面を見て、例えばCの音を吹くと実際に出る音(絶対音)はB♭(ビーフラット)になるんですね。

 

 ですのでピアノと同じCを出したいときはトランペットではDの音を吹かなければなりません。

 

 そういう構造になっているからだと思うのですが、ラッパの譜面は私が覚えている限りではフラット系のキーがシャープ系で書かれた譜面より多かったと思います。

 

 そういうトランペット時代の馴れと、そしてこれは記号の形♭は曲線が目立ち、♯は直線だけという見た目の印象とフラットとシャープの言葉の意味からくる印象が重なって、私自身はどうも♯(シャープ)が苦手になってきてしまったんです。

 

 シャープはなにか尖ったざらざらした感じがあり、フラットはそれに比べて柔らかなふわっとした感じがするのですが、その印象はあくまでも譜面から来る感覚であって、譜面を離れて音楽を聞くときにはそういう感覚が起こることはないです。

 

 

 

 演奏する時どちらの記号もせいぜい4個(今はメジャーキーに限って話してます)、フラットならばA♭メジャー、シャープならばEメジャーくらいまでなら、なんとか大きなミスなく弾けるというか、気持ちにもいくらか余裕があるのですが、これが5個になると(このキーの譜面はあまり無かったのですが)もう混乱して、ミスタッチの連続も不思議ではなくなり、第一に心に余裕がないので冷静でいられなくなってしまうわけです。

 

 

 

 

 フラット5個のD♭の譜面では忘れられない、というよりも今でも思い出しては心が騒ぐ苦い思い出があります。

 

 その当時から見て、昔売れていた男性タレントが来ることになって夕方からリハーサルをやることになり、歌伴としてこのD♭の曲が出てきて冒頭ピアノがアルペジオで音を出すことになっていたのですが、ほとんど黒健ばかりのアルペジオなので、一音、一音きれいに弾けなかったのですね。

 

 歌い手はそのコードを聞いて歌い出すのですから、音が取れなかったら歌えないことになります。

 D♭を半音下げれば記号の何もないCメジャーとなって抵抗は何もないのですが、そんなことは言ってられません。

 

 二回音出しをしてもやはりきれいに音が分散していかないので、そのタレントも困ってしまい、その時バンマスが「実は正規のピアノがどうしても間に合わなくて、今はトラ(エキストラ)を頼んできてもらっている」というような言い訳を考えてくれ、「じゃあ、本番のときには正規のピアノでお願いします」とタレントも了承し、その場をそれで終わりにして次の曲へと進行していったのでした。

 

 もちろん本番も私が弾いたのですが、そのショウタイムの顔合わせのときに「あなたですか」ともろに言われてしまい、しかし仕様がありません、私しかピアノはいないのですから、そのまま本番を迎え、まっ何とか乗り切ったわけです。

 

 

 このときの印象があまりにも強烈だったからでしょう、バンドを止めてからも夢には何回もてくるし、ふと思い出すと息苦しくなるほどの後遺症が残ってしまいました。

 

 

 

 私自身が一番好きだったキーはフラットひとつのFメジャーで、このキーのほうが何の記号もないCメジャーよりは弾きやすく、なにか柔らかい感じもしてとても気に入っていたものでした。

 

指は回るけれど

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Thelonious Monk.

 

 

 

 

 

 ピアノの仕事にも馴れてきて、いくつかのバンドを経験していた頃に出会ったドラムスとベースの仲良しコンビがいました。

 

 そのバンドに入って少し馴染んできたころだと思うのですが、その仲良しコンビに誘われて焼き鳥屋かなんかで言われた言葉に、「あんたは確かに指は回る。それは認める。だけどあんたのピアノはどの曲も全く同じ感じで弾いていて、まるでリズムがなってない」と強い口調で言われたことがあります。

 

 キャバレーで演奏する曲は基本ダンス音楽です。

 

 マンボやサンバやルンバやたまにはワルツ、まれにタンゴ、そして4ビートの曲やはやり歌のアレンジもの、そのお店専属の歌手の歌伴などがおもな範囲となっているのですが、私のバック演奏、他の人が演奏しているときに付けるそのバック演奏が全く一律でリズムの差がないときつく言われたわけです。

 

 言われて見ると確かに私のバック演奏は一口に言ってしまうとアルペジオというか、コード(和音)を分解してソロをとっている人の後ろから飾りをつけていくというスタイルばかりで終わっていたようなのですね。

 

 もちろん譜面通りに弾かなくてはならないところではそのように弾きますし、左手は基本ベース奏者の進行の邪魔にならないように適当に弾くのですが、右手が今言ったようにアルペジオで飾り立ててしまう傾向が目立った、というかそういう自覚がなかったのでしょう。

 

 

 誰でもプライドだけは地面に溢れるほど持っているのが普通でしょうから、人から何か欠点を指摘されたり注意されたりすること自体をそのまま素直に喜べる、と言う人はそんなにはいないと思われるのですが、私もそういう一面は強く持っているので、言われた瞬間はむっとしたのですが、しかし、すぐその事実に思い到ることができたので、その場でもその指摘に対して礼を言い、次の日から改めて手元にある曲集のベースラインと右手のコードラインとをゆっくり確認しながらの弾く練習を始めました。

 

 翌日からすぐベース奏者のベースラインとピアノのベースラインを合わせることを意識し、右手のアルペジオも控えて地味なバック演奏に徹してソロを取る演奏者の後に付いていきました。

 

 1週間位たってからまた仲良しコンビニ誘われバンドマンがたむろする安い焼き鳥屋で「あんたのピアノのリズム随分よくなった。すごくやりやすい。」と言われ、ほっとし安心し、やっとリズム隊の一員として打ち解けることができました。

 

 

 

 指摘され注意されて初めて気づく事っていくつもあります。

 

 自分では何気なく弾いてしまっていることが傍から見ると(聞くと)目障り。耳障りになっているということがあって、でもそれが癖になってしまうと自分では自覚できないんですよね。

 

 

 もう一つ今思い浮かぶのはあの例の、何度考えても自分がどうしてこんなにいびられるのかわからなかったバンドで受けた指摘です。

 

 ピアノはラッパと比べものにならないほど音量が小さいので、多分そのことが原因になったと思われるのですが、ピアノでソロを取る時に出だしの音をそのまま一音で弾かずに、タン、タンと二度続けて打鍵してしまっていて、楽器の性質上一度打鍵してしまえばピアノの音はすぐ減衰して消えていくのですが、それを補おうという意識が働いていたのでしょう、どうしても一度の打鍵だけでは足りなくて二度続けて打鍵してしまったようなんですね。

 

 そのことをあのビブラホーン奏者が指摘してくれたのでした。

 

 まあ、皮肉めいた口調ではありましたが・・。

 

 しかしとにかくその耳障りな奏法の無自覚さに気づかされて、次からすぐに自覚してその悪い癖を直そうと思い、それからは完全ではないにせよ、直っていったのは事実ですので、彼には感謝しなければなりません。

 

 

 よく人から何も言われなくなったら終りだという言葉を聞くことがありますが、確かにそれは一面の真理だという体験を何度かしたおかげで、何とかバンドを続けられたのだと、今はそう素直に思えますね。

人の恋路を邪魔する奴は

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Art Blakey.

 

 

 

 

 

  やっぱり記憶が曖昧で、最初にピアノで入ったバンドのリーダーがもう一人いたようなんです。

 

 小樽で知り合ったテナーの人というのも果たして小樽だったのか。

 

 もう一人というのはギターの人で、その頃の私がメロディを聞いて「ああ聞いたことがある」と思うほどの「〇〇小唄」という歌謡曲を作曲した人で、その頃でも一応作曲家を名乗ってはいたのですが、流行歌の言葉通り、次から次へとヒット曲を出すことはよほどのことなので、まあ次のヒット曲を出せないまま、くすぶっていたというか、でもギターの腕前はそれなりなのでどこで繋がったのかは思い出せないのですが、とにかくテナーの人とギターの人の二人が時期をずらして我々のバンマスになったのだと思います。

 

 何回かその作曲家の家にみんなで遊びにいったのですが、まだ若い奥さんと幼い子供がいて、はっきり言って釣り合わない印象でしたが、奥さんは私たちバンドマンに対していつも丁寧に応対してくれ、お茶や食事なども多分出してくれていたのだと思われます。

 

 

 メンバーの名前はほとんどが姓の略称なのですが、一人「若」とあだ名された今でいう「イケメン」、その頃は「ハンサム」ボーイのドラムスがいて、この彼のあだ名通り誰が見てもいい男だったので、「若様」を略して「若」となりました。初めは

 

 ベースの「梶」は、その頃はやっていた吉田拓郎の歌真似が得意で、私は拓郎の名前くらいは聞いてはいても、曲は全く聞いたことがなかったので、初めは彼が作詞作曲したのかなと思ったくらいなのですが、彼がギターをかきならして早口でなにやら叫ぶように歌うその様子がおもしろく、だいぶ後になってその歌が拓郎の歌だったことを知って、ああそうなのかと感心した記憶が強くあります。

 

 その梶君がお店のホステス(私たちは社交さんと言ってましたが)の一人に惚れてしまって、みんなで冷やかしながら少しは応援もしていたのですが、基本、店の女の子には手を出すなというのがバンドに入ってすぐに教えられた手前もあり、私自身はいいのかなあという思いもあったのですが、昔から「人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでしまえ」と言われているのですから、建て前はともかく、仲間の一人として彼の恋の成就せんことを酒の肴にしていたわけです。

 

 彼が恋したその社交さんは間違いなくお店の中では群を抜いてきれいな目立つ人で、しかし彼よりはずっとずっと年上の女性で、確かに人を好きになるのに年齢の制限などはないのですが、まあ普通には成就することが難しいと誰もが思う恋だったわけです。

 

 始めは冗談に近く聞いていたのですが、酒を飲みながらみんなと話ししているうちに、段々これは本気で惚れているのだなと分かって来て、しかしそのことを直接彼女に伝えるのにも潮時というのがあるだろうし、ということでなかなか一筋縄ではいかなかったのは当然なことでした。

 

  

 東京で初めてバンドに入った時にまず注意されたことは、上にも書いたように「店の女の子には手を出すな」ということで、何しろキャバレーの主人公はそれぞれの社交さんなので、私たちバンドはいわば彼女たちとお客さんを楽しく遊ばさせるための裏方なわけですから、その大事な商品である女の子に手をだすことは当然ご法度のわけで、もし万が一恋仲になったのでしたら、結果として同棲することに落ち着けばそれはそれで認められるのでしょうが、ただの遊びは固く禁じられていたのでした。

 

 

 段々彼の思い方が強くなってくるに随って、私たちもなんとかしてあげたいと冷やかし気分から本気になってきて、随分と年上の彼女ではあるけれど、彼がそれでよいのでしたら傍がとやかくいうことではないので、彼の恋のキューピッド役、橋渡しを演じなかればと考えているときに、本人の彼が恋する彼女に打ち明けたようなんですね。

 

 多分、気持ちは嬉しいけれど私はあなたより随分年上なので諦めてください、というようなことを言われたのだと思います。

 

 誰が見てもそう言って断られるのが普通だと思える彼の恋だったからです。

 

 酒の席でもそのようなセリフを彼が口にしていましたので、まあ、そうだったのでしょうね。

 

 

 吉田拓郎の歌まねが得意な、またその歌が拓郎とそっくりだった彼の恋はとうとうかなわぬままに終わってしまいました。