バンドマンになって
ぼたぼたと文字通りのぼた雪がふって、せっかくもうほとんど融けていた道路や畑やらがまた一面の雪野原になってしまった。
でも今朝は雪かきをしなかった。
やがて雪が降りやみ太陽が出てくれば直に融けてしまうだろうから。
もう半世紀も前の頃、初めて東京に住んで最初の冬を迎えたとき、いつまでもいつまでも冬にならず、ただただ秋の延長の風景がだらだらと続くだけなのには驚いた。
冬と言えば北国、雪国に住む者には雪がふり、あたりの景色が一変するものという感覚が染みこんでいるので、今現に見ている寒々とした秋の景色の延長が冬だとはどうしても納得できず、しかし、暦の上では冬であって、その大きなずれ、断絶を受け入れるには時間がかかった。
年が明けてから初雪が降ったことがあった。
嬉しくてセーターか何かそのままの服装で少しそのあたりを散歩してみた。
それで初めて気がついた。東京の人達が雪のふる時になぜ傘をさすのかを。
ここにふる雪は故郷のようなサラサラと服の上を滑り落ちていくような粉雪などではなく、湿ったほとんど雨に近いような濡れた雪だということを。
雪がふる時には雨がふるのと同じように、ここでは傘が必要なのだ。それを知らずに嬉しくて外へ飛び出したその結果は、セーターを脱いで乾かさなければならないという寂しいものだったのだ。
バンドマンとして職から離れて早や35年以上経つというのに、いまだにステージで失敗して冷や汗をかいたり、激しく後悔するようなそんな悪夢というか、強迫観念に包まれたいやな夢をたびたび見る。
もうこれはきっと死ぬまで離れることのできない心の軌跡なのだろう。
私自身は記憶力のとても悪いタイプだと自覚しているので、いまここに当時の資料といえるものは何一つ無いので、具体的に目に見えるような場面をくっきりと思い浮かべることはできないのだが、それでもいくらかの印象に残っていることはあるので、当時のバンドマン生活の一端を思い出して書いていきたい。
「立ちんぼう」というへんてこな言葉があった。
当時、東京に限らず日本全国どこにでもといってよいほど、夜の世界ではキャバレー全盛期であって、ちょっとしたお店(箱)には必ず生のバンドが入っていた。
そういう箱の数に比べてバンドマン全体の数がきっと足りなかったのだろう。ろくに音も出せないような、そんなバンドマンとは言えないような見習いみたいな者でも、一応正規のバンドのメンバーとして雇ってもらえたのだが、そういう人数合わせのメンバーを「立ちんぼう」と呼んでいたのである。
そして私はそういう人を小馬鹿にした、はっきり言って契約上の人数合わせとギャラの調整弁としての立場から、バンド生活がスタートしたのだった。