音楽を聞くことと演奏すること
モーツァルトの音楽を偉大なるマンネリズムと呼んだ批評家の言葉を目にしたとき、なるほどなあと強く素直に納得したことを今更ながら思い出す。
確かに彼の音楽は何を聞いてもモーツァルトであって、耳に快く、ほとんどが不快な思いを抱かせることもなく、現に療養型の病院のバックグラウンドとして常時流されているのを、私も行くたびに聞いている。
耳に訴える音楽は、目に見える絵画や彫刻や写真とはその感覚を全く別にしているので、そして瞬間ごとに消えて行く無常そのものの現れなので、絵画がそこにじっとあるようには決してそこにあることができないので、特殊な音感、感覚を有している人には当てはまらないかも知れないが、普通一般的には音楽を捉まえるというその行為は極めて難しいものとなってしまう。
音楽を聞く、聞いているときの私たちのその心の動きはだからとても把握しづらく、それを語る言葉もまた困難となってしまう。
確かにそれを聞いたのにもかかわらず、その全体を復元することはとても難しい。
今は録音されている音楽を聞くことが当たり前であって、生の音楽をその場で聞くこと自体が特殊な、祝祭的な行為となってしまっている。
録音されているからこそ、繰り返し同じ音楽を簡単に聞くことが可能になっているこの現代に生きる私たちは、つい生のそこにいたときにしか聞けない、その場かぎりの唯一絶対の音楽が持っている生々しい臨場感を忘れさってしまう。
いや、勿論音楽が与えるその感動に録音、ライブの区別は本来あり得ないということも事実である。
再生機が高級であるとかもそれは関係なく、人はそこで出会った音楽に心から感動することができる。
カーステレオから流れてきたその一曲に心震わせて涙することも、時にはある。
音楽に参加する形としては、聞くという鑑賞行為と実際に自分の体を使っての演奏行為の二種類があるだろう。
聞くというその行為には今言ったように生で聞くことと、録音されたものを聞くことの二つがあるけれども、演奏するときには生(ライブ)以外の行為はあり得ない。
私はその二つの行為を自分の体で体験してきたので、どちらであっても音楽の魅力を感じ、そして今は完全に聞くだけとなったので、つい音楽を「聞く」方の立場から、音楽を語るという姿勢になるのだが、しかし音楽を演奏するという立場もまた考慮しなければ、それは片手落ち、不公平となるのかも知れない。
これから少しずつ気の向くままに音楽についておしゃべりをしていこうかな。