彼氏、いま幾つ?

f:id:sekaunto:20190410094951j:plain

John Coltrane.

 

 

 

 

 

 スナックでお店の女の子と話しているときに「彼氏、いま幾つ?」と尋ねられたことがあります。

 

 「彼氏」はこの場合明らかに私のことであって、三人称を二人称として使うことにすごく違和感を覚えたのでしたが、私のほかにはそのとき男性は一人もいないし、何よりも直接私の目を見て「彼氏」と呼んできたのですから、話の流れからして当然私のことを言っているのはわかりましたので、「今〇〇です」と答えたのですが、その後も私のことを普通の二人称で呼ぶことがないまま、「彼氏」「彼氏」と言ってました。

 

 この女の子は少し私より年上のように見えたのですが、それにしても面と向かって「彼氏」と三人称を使って呼ぶのは、一体どういう心理というか文脈からくるのか気になるところです。

 

 

 今でもこういうふうに三人称の「彼氏」「彼女」を二人称として使っている人がいるのかどうか、もう全くススキノにも近くのスナックにも出かけることが無くなった今現在、わからないことなのですが、それにしても奇妙な言葉使いだと思うのですね。

 

 

 

 ひとりで例えばこういうブログを書いているときならば、あの時の彼、彼女はいまどうしているだろう、と当たり前に使うでしょう。ここにその対象となっている「その人」がいないのですから、不在の相手に向かって「あなた」と呼びかけるのはよほど特殊な効果を狙ったり、どうしてもそれでなければならないような限定された場面にしか使わないでしょうから、「その人」がいないときには必然的に不在の人は三人称としての「彼」「彼女」とならざるを得ないわけです。

 

 だとすると今現在目の前にいる、実在している人に向かって三人称の「彼氏」を使うということは、目の前の実在する人を一度は無化してしまって、そこからまた改めて相手の存在を認めながらも、現実の態度としては「ここにいない人」としての「ここにいる人」への呼びかけとして、三人称の「彼氏」を使い続けるということになるのではないでしょうか。

 

 

 問題はそういう一見奇妙な操作、手続きをすることによって得られる心理的効果にあるのだと思われます。

 

 馴れというか洗脳されたというべきか、いつの間にか私もスナックなどで話しするときには目の前の女の子に対して「「彼女」はいつからここにいるの」とか使うようになってしまっても違和感を覚えなくなってしまいました。

 

 そういう時の普通の文法から外れる言葉の使用法の効果は、初対面のときには特にそうなんですが、相手から受ける心理的な圧力が軽減される、ということにあるように思えるのです。

 

 いま初めてこの場所で出会った見ず知らずの人間に対する警戒感は、たとえ自覚がなくとも必ず働いているわけで、そういう警戒感を解く、或いは薄めるためにもこの目の前の相手をいったん無化して、そしてそのまま三人称としてのここにはいない筈のその人を「彼氏」「彼女」と呼ぶことにするわけです。

 

 そうすると二人称で呼ぶよりも格段に心理的障壁の重み、厚みが軽減され、一気に相手の中へと(気にいればですが)入っていけるような気がしてくるように思われるのですね。

 

 二人の間に在る目に見えない壁を乗り越えるのに、この三人称を二人称として呼びかけるという奇妙な言葉使いは、現実的に有効のようだと思いました。