40年ぶりに新聞記事で再会する

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考える人。

 

 

 

 

 

 去年、地元の新聞の札幌圏の記事の中に思わぬ人を見つけて驚きました。

 

 私がお世話になったバンドのバンマスで、なんとバンドを止めてから奥さんとの二人で長く高齢者の施設慰問を続けているという内容だったのです。

 

 元バンマスのHさんはテナーサックスで奥さんはキーボードを担当し、高齢者のよく知っている歌謡曲とか唱歌みたいな曲を演奏しているようなのですが、なるほど、人に喜ばれるボランティア活動を奥さんと続けられているその事実が、そのHさんの私の知らない内実の一端なのだなあと思い知らされて、人の多面性を改めて知らされたことでした。

 

 

 バンマスのH さんを思い浮かべると真っ赤なブレザーを着てテナーを持ち、ステージでカウントを取る仕草と、掛け持ちで他の店へとせかせかと歩いているその姿が見えてくるのですが、ちょうどこのころから「カラオケ」が明らかにススキノ全体に浸透してきて、時代が変わってきているなあと思えるほどになってきたのと、それと同時にキャバレーで遊ぶという客自体が減ってきて、その肝心のキャバレーが閉店するという私たちバンドマンにとっての死活問題も徐々に現れ出した時期でもあって、いよいよ自分の将来について真剣に考えなくてはならない情勢になった、というそのこともまた思い出されてきます。

 

 「カラオケ」が正確にはいつごろから現れだしたのかはわからないのですが、最初はこんなもの大したことはない、という印象でしたね。

 

 勿論テープだったのですが、何というのかカセットデッキの大きいのと言えばいいのか、出初めは一つのデッキに4曲入っていて、それを再生して歌うというスタイルだったと思います。

 

 ですので今のように好きな曲を次から次へと歌えるというような便利なものではなく、そうかといって大量のデッキを持ち歩くこともできず、その内8曲収録とかのデッキも出てきても基本同じようなスタイルで歌うのですから、例えば一人のピアノがいて、その彼にリクエストして客が歌うという従来のスタイルから見れば、まだまだ不便で操作も面倒だったので、私なんかはこのカラオケなど怖くはないと、そう高をくくっていたのでした。

 

 

 

 しかし器械の進歩というのは凄まじい速さで進行していくものなのですね。

 

あっという間にこのカラオケなる歌伴そのもの器械がススキノを占領していって、気が付けば今まで入っていたスナックなどでの弾き語りとかの需要もなくなり、大勢のピアノ弾きの仕事を奪ってしまっていったのでした。

 

 確かに一度器械を入れればその後はテープの補充だけですむし、何より客から一曲いくらと料金をとって歌わせるという今までにない、新しいシステムも出来上がり、それまでの高い演奏者へのギャラも払わなくともよくなったのですから、お店にとっては二重に良いことになったんですね。

 

 

 私自身は歌を歌えるような才能も無く、ただピアノを弾くことしかできなかったのですが、実際歌を歌えたらピアノ弾きにはたくさんの仕事があって、随分もてたのです。

 

 カラオケが浸透する前は少し大きなスナックや小さ目のクラブなんかでは、バンドを入れるほどでは無いけれど生の音が欲しいということで、ピアノの弾き語りの仕事はたくさんあって、私なんかも歌が歌えたらなあと、そういう弾き語りのピアノをうらやんでいたものでした。

 

 しかし諸行無常。全ては容赦なく移り変わっていきます。

 

 このHさんと一緒に仕事をしている間は大丈夫だったのですが、他のバンドに移って1年後くらいだったでしょうか、とうとうそのお店が閉店したのですが、なんとその後をこのH さん始め何人かのバンドマンが共同出資して引き継いだ、という話を聞いたのです。

 

 共同出資といっても百万円単位ではありません。

 

 何せキャバレーは社交さんがいなければ商売にならないのですから、数十人の女の子に支払わなければならない人件費は膨大なものでしょうし、その他のアルコール類、等々毎月支払わなければならない必要経費、自分たちの給料、そんなことを考えれば千万単位のお金が必要になると思うのですが、どこのそんな大金を隠し持っていたのかと妬み、そねみの感情が湧き出てきてもおかしくなく、私たちバンドマンは不当に搾取されていたのかも知れませんね。

 

 しかしやはりというか当たり前というか、閉店するにはそれなりの事情があって閉店するのですから、それをまた軌道にのせることは容易なことではなく、ましてや素人の共同経営であればますます困難さが倍増するでしょうし、結局そんなに長くは持たずに今度は本当に閉店してしまいました。

 

 H さんが投資したであろうそのお金は無になった(と思われるのです)のでしょうが、他人のお金の事なので正確な事実はわからないままです。

 

 

 

 

 そういういきさつがあったので、40年ぶりに新聞紙上で再会した元バンマスHさんのボランティア活動には少しばかりの感慨が湧き起ったのでした。