「風車(かざぐるま)」と「メリージェーン」

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Miles Davis.

 

 

 

 

 

  札幌のバンド時代を振り返ると仲間5人での演奏活動の時間はそんなに多くはなかったと思うのですが、なんと言っても気心の知れた者通しのバンドなのですから、楽しく演奏できたことは間違いなく、その代わりと言ったら外れてしまうのかも知れませんが、キャバレーでの安定した契約ではなく、短い期間で次から次へとオーデションを受けなければならなかった、ナイトクラブ特有の事情のある、なかなか厳しい時期でもあったことは事実です。

 

 キャバレーとはまるで客層が違うナイトクラブではキャバレーのように社交さんが売りではなく、バンドそれ自体がお客を呼ぶ重要な要素でもあるので、お店のほうでも同じバンドが長く続くとお客さんに飽きられることもあって、その反面、人気のあるそのバンドがいなくなれば確実に客が減るであろうことが見込まれる場合には、勿論長期に渡って契約が続くのでしょうが、そういうバンドは稀なので、大抵数か月或いは半年単位でバンドチェンジのためのオーデションが行われ、それに無事合格したバンドだけが契約を結ぶことができるわけで、そのオーデションも店によっては四つも五つもバンドが競うことがあって、これはなかなかの緊張を伴う事態でもありました。

 

 

 

 私たちのバンドでは「寺ちゃん」と呼ばれているボーカルとギターの彼氏にバンマスをやってもらい、彼は当時あちこちのお店のマネージャーとかにも顔が広く、時にはその店でのオーデションは初めから出来レースというか、契約されることが決まっているのに形だけの演奏をやったこともあって、そういう裏技も使うことができるほどの頼りがいのあるバンマスでもありました。

 

 

 ナイトクラブではなんと言ってもボーカルが花形です。

 

 歌が歌えてそれに加えて何か楽器ができればそれに越したことはなく、そういう意味でも寺ちゃんはバンドの中心的人物でもあり、また性格的にも親分肌というか人の面倒もよく見るバンマスには打ってつけの人だったのでした。

 

 

 

 色んな歌を歌った筈なんですが、当時の洋楽のディスコナンバーなんかもあったでしょう、でも私の中に色濃く残っている彼の歌に、松山千春のそんなにはヒットしなかった、あまり多くの人には知られていなかった「風車(かざぐるま)」という曲があって、この曲が私にとって印象深いのは多分、間奏に短いピアノのソロが入っていたことが大きな要因になっていると思うのですが、その外にもサビの部分で爆発的にオクターブ上げて歌い上げるところが何か心を揺すぶられたようなのですね。

 

 松山千春は実に音域の広い伸びやかな高音のでる、才能あふれた歌手の一人だと思いますが、特に初期のころはヒット曲を連発して北海道、足寄(あしょろ)、帯広の名前を広めてくれた人でもありました。

 

 

 随分後でカラオケでこの風車を歌ってみたときに、サビの部分の高音を出すのは簡単でないことがわかり、その当時の寺ちゃんはそんなそぶりをみせないで楽に歌っていた(ように見えた)ので、やはり歌手として喉を鍛えている人にはかなわないなあと感心したものです。

 

 

 

 あとこの「風車」の外に印象深い曲として「メリージェーン」があります。

 

 ナイトクラブに遊びに来る人に様々なタイプの人がいたことは間違いのないことですが、閉店間近のダンスタイムが誰にとってもその日の最後のチャンスの時間であったことは事実で、そのときの定番がなんと言っても「メリージェーン」だったのです。

 

 この、つのだひろ作詞作曲の「メリージェーン」は日本人が作詞した曲としては珍しく全て英語で書かれていて、まあ、あれですね、らしく聞こえればよいわけで、歌い手としての正確な発音は誰も問わないのですから、ひたすらムードを盛り上げていけばそれでお店としてはOKなんですね。

 

 この曲の間奏はギターでもサックスでもそれにふさわしい、まとわりつくようなスタイルでアドリブを取っていくことが求められているのですが、やはりレコードでさんざん聞いているその演奏が耳に残っているので、それから完全に離れた全く独自のアドリブをするのはクラブでは難しく、やはりどこかで聞いたことがあるなあと思わせるくらいのフレーズが入っている方が客からももてるので、そういう意味ではアドリブコピーは重要になってきます。

 

 でもこのメリージェーンの間奏でのアドリブはかなり難しいです。日本の一流ミュージシャンの演奏ですね。

 

 

 

 

 

 そしてススキノも時代の流れに乗って今まで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなり、ナイトクラブで遊ぶというスタイルも段々形を変え、クラブもバンドもいらなくなるような時代にはっきりと流れをかえつつあることが、身近になってきたことを感じる時になってきて、私たちのバンドもそのままの仲良しバンドではやっていけない季節に入ってきたのでした。