一人の歌手に運命を託す

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Thelonious Momk. and Miles davis.

 

 

 

 

 

  ときどき一人の歌手に自分の運命を託したピアノの彼を思い出すことがあります。

 

 

  キャバレーで仕事をしているとたくさんの歌手の伴奏(歌伴)をします。

 

 中にはレコードデビューしてその曲のキャンペーンのため全国を回っているという歌い手の方もいます。

 

 最初に音合わせをするときその歌い手さんの曲を聞いてしまうと、失礼ながら、ああこの曲ではヒットしないだろうなあとかよいメロディ、曲調なのでヒットして欲しいなあとか、それぞれ自分なりの感想を持ち、仲間と話し合ったりもします。

 

 バンドをやっている間に出会ったそういうキャンペーン中の歌手で大ヒット、あるいはヒットしてテレビに出るようになったという歌手には残念ながら会うことがなかったのですが、あの頃は特にそういうキャンペーンが有効な時代だったのではなかったかなと思われます。

 

 

 

 

 比較的長く在籍していたバンドのところで、すっかり顔なじみになった背の高い男性歌手がいました。

 

 演歌系だったと思いますが、その彼があの当時の東芝レコードからデビューすることになった、ということを聞いてバンドの仲間と共に喜んだことがありました。

 

 彼のレコーディングの話だと、結局世に出るレコードは実にきめ細かい声の切り貼りで出来ているようで、何気なく聞いている流行歌や歌謡曲と呼ばれているものが、実は一音一音選び抜かれて最終的に形になるんだなあと納得できる話でした。

 

 その彼のレコードを聞き、実際に彼の歌の伴奏をして、その曲がこれってもしかしてヒットしてもおかしくはないのじゃないか、と我々に思わせるものだったので、心から彼のデビューを喜び、レコード売れたら東京に出るとか出ないとか、どこかの店を借り切ってお祝いをしょうだとかのたわいもない話で盛り上がったりもしていたのでした。

 

 そんなとき私をびっくりさせるような話を聞きました。

 

 相方のバンドでピアノを弾いていた彼氏がバンドを止めて、そのレコードデビューした男性歌手のキャンペーンの為に専属のマネージャーとなって、彼の歌に自分の人生を託したということを聞いたのです。

 

 確かにその曲は我々バンドマンにとってもヒットの兆しが見えてはいたとしても、そこにはあくまでも身内としてのひいきの思いが込められていたでしょうし、実際流行歌とか歌謡曲とかと呼ばれていた様々な曲がヒットする絶対的な法則などはどこにもなく、いわば偶然にまかせるかただ神のみぞ知るという領域の出来事であってみれば、その演歌の曲がヒットする可能性はゼロか百か、その中間は無いということにならざるを得ないわけで、そういう博奕の世界に突然飛び込む決断を下したということ自体が私には驚きで、いまいち心情的に深く理解できなかったのを覚えています。

 

 しかし、ともかくサイコロは投げられたのです。

 

 吉とでるか凶とでるかは行動してみなければわかりません。

 

 一か月が勝負だとピアノの彼氏と男性の歌い手が言ってました。

 

 たった一か月でこの広い北海道を丁寧に回り切ることは不可能ですが、まあ、大体のクラブやキャバレー、レコード店や大勢の人が集まる場所、それらの情報をどのようにして入手するのか私にはわかりませんが、とにかく彼ら二人はまず札幌を中心に、次には地方へと彼らの人生を懸けてキャンペーンに乗り出したのでした。

 

 その具体的なことはわかりません。

 

 私はいつものようにいつもの店で演奏していたのですが、しかし何といってもつい先日まで顔を合わせてお互いに相方としてピアノを弾いていた彼氏と、すっかり顔なじみになって冗談を言い合っていた歌い手さんのキャンペーンの成果が気にならない筈はありません。

 

 特にその相方のバンドでピアノを弾いていた彼氏はどちらかと言えば大人しめの物静かな印象だったので、その突然の豹変ぶり、運命共同体としての一人の歌手の専属のマネージャーとして、ぴったりとバンドの世界から足を洗ってゼロか百かの世界にまっすぐに飛び込んでいったその勇気というか、決断力にはびっくりしたものです。

 

 

 私もろくに音もでないくせにジャズマンを夢見て上京するまでには、それなりの葛藤と決断を要したのですが、バンドマンとしての生活を捨てて山のものとも海のものともわからない、歌手のマネージャーに飛び込むことに比べれば、まだたやすいことで在ったかも知れません。

 

 

 結果はただ神のみぞ知るです。

 

 行動しなければ何も得られないのは火を見るより明らかです。

 

 

 

 

 結果はしかし残念なものでした。

 

 

 彼ら二人の懸命なキャンペーンにも関わらず、ヒットの兆しは見えず、二回目のレコーディングもなく、私はついに彼ら二人のその後の様子を知ることができないまま、やがてバンドを離れていくことになりました。

 

 しかしとにかくあのピアノの彼氏は大いなる夢と野望をあのとき、一人の歌手の上に託したのです。その結果がどうであれ、あのときの彼は見知らぬ運命に向かって大きく飛んだのでした。

 

 

 それでいいのだと私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

水商売の人のための飲み屋さん

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John Hurt.

 

 

 

 

 

  昼間に働いていた人たちが仕事が終われば居酒屋やクラブ(昔だとキャバレー)やスナックに行って高いお金を使ってでも、仕事の疲れやストレスを発散させるように、その昼間の人達のストレスや愚痴やらを受け止めていた夜の仕事の人達、いわゆる水商売の人達の疲れやストレスを受け止める、最終的な水商売、飲み屋さんがまたあるということをススキノに来て初めて知りました。

 

 開店時間は大体夜の11時(23時)頃からで、閉店時間はもう本当の朝、というか子供が学校に行くころまで営業することも珍しくないのですから、まあ、客次第というか、文字通り昼夜逆転の生活が毎日のように続くわけで、いくらなんでもそんなに長期に渡って続けられるような仕事ではないなあと、人ごとながらそう思ったものでした。

 

 

 一度だけ、あのディスコで演奏していた時のギターのバンマスとアルトの人に連れられて行ったのだと思います。

 

 お店自体は普通の飲み屋さんでマスターとその奥さんの二人で営業していたのだと思いますが、私たちが行ったのはすでに真夜中の2時を過ぎているのにもかかわらず、まだまだ序の口というか、これからが本番という感じで、その日は結局朝の7時ころまで飲み、話しをしていたのじゃなかったかな。

 

 私はあまりお酒に強いタイプではなく、それでも飲みだして酔ってくるといやでも楽しくなってくるのですから、飲めなくなるまで大抵飲むのですが、その後は苦行が待っていて、よくトイレで吐いたり(たまには外でも)して、血の気の引いた青白い顔で仲間のところに戻るということはよくありました。

 

 まだ20代でしたから、嘔吐しても、いやしかしこの嘔吐というのは実に苦しいもので、そのときは心底からもう二度と飲まないと自分に誓うのですが、一晩寝てアルコールが抜けると、その苦しさの幻影が立ち上がってはきても、やっぱり仲間とワイワイおしゃべりがはずむのが楽しくて、きのうの自分への誓いなどどこへやら、またいつもと同じ調子で飲むことができるのでした。

 

 

 その水商売の人のための飲み屋には、バンドマンのみならず、自分のお店を閉めたあとの一日の疲れをとるために飲みにくる経営者、ホステスさん、ホストクラブのホストさん、あの頃は「トルコ風呂」といっていた今でいうソープランドの女の子、ゲイバーの子、等々ススキノの縮図とでもいえる様々な職種の人達が深夜すぎに、あるいは朝方に飲みにくるようで、その日の様子はもう思い出せないのですが、一応吐くこともなく朝まで飲み、食べたのではないかと思います。

 

 

 キャバレー勤めをしているときには、夕方家をでるわけですが、帰りはサラリーマンが飲んで帰る時間とほとんど同じなので、その後朝方まで飲まなければ、昼間に働いている人たちとなんら変わりのない生活ができることになるので、まあ、健康的とでも言えると思うのですが、ただ夕方に家を出て職場に向かうときのあの違和感のなかにはほんの少しの寂寥感も混じっていたように思われて、今振り返ると、やっぱり夜の仕事だったなあとも感じます。

仲間と出会う

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Miles Davis.

 

 

 

 

 

 小樽から札幌へ来たのは、両親の職場が札幌のある会社の寮のまかないをやることになって、私もまたそれに付いていったからだと思われます。

 

 あの頃は高度経済成長が続いていた時期で、余裕があったのでしょう、今度も寮生でもないのに、寮の一室を自分の部屋として借りることができ、きっとこの引っ越しの時にピアノを買い替えたのだと思います。

 

 

 バンドの世界は非常に狭いので、新しいバンドに入るときにはほとんど紹介によるのですが、今度の札幌での最後となったトランペットの仕事先はあの頃全盛期だったディスコだったので、誰かの紹介だとしてもどうも場違いのような気もするのですが、とにかく札幌でその頃最大の「釈迦曼陀羅」という、一見ディスコとは縁遠い名前の店でも演奏することになって、その他にもう一軒入っていたとおもうのですが、そちらの方はいつものように思い出せません。

 

 バンマスはギターで自分から「俺はススキノで一番うまい」と豪語していただけあって、確かにギターのテクニック、演奏は抜群でした。そしてアルトサックスのメンバーの人も上手かった。

 

 コンプレックスは大きかったと思います。

 

 今度の職場は今までの深夜零時前に終るキャバレーではなく、零時を過ぎて多分午前2時頃まで演奏していたのじゃないのかなと思うのですが、その頃のススキノのナイトクラブで演奏するバンドでは、朝方の4時頃まで毎日仕事しているグループもあって、いくら20代のエネルギー溢れる年代でも、長くは続かないだろうなあと感じる、そういう長時間のバンドに比べれば、まあ、大分ましだったのだろうと思います。

 

 

 「釈迦曼陀羅」では10代の男の子、女の子がたくさん出入りしていて、今までの職場とはまるで違った雰囲気で、私たちは「ピン子」と言ってましたが、そういうおかしな女の子もごろごろしていて、どうもなじめなかったことは事実です。

 

 

 深夜遅くまで仕事をするという以上に、私自身もうこれ以上ラッパでバンドをやるのは無理だなあと思っていたので、なんといってもススキノで一番だと豪語して止まないギターのバンマスと、かっこいいアドリブを次から次へと紡ぎ続けるアルトサックスの人の演奏にコンプレックスもあって、そんなに長くはこのバンドにいなかったように思います。

 

 

 

 そんな時に小樽で一緒に仕事していたテナーの人が札幌に出て来てバンドを組みたいと言っているという情報があって、私自身もメロディくらいはピアノでも弾けるようになっていたので、小さなキャバレーということもあり、ちょうどよい仕事場だと思い、そのテナーの人の人柄も印象がよかったので、一緒に仕事をするようになったのですね。

 

 そして面白いことには、ここでそれからバンドを止めるまでずっと付き合うことになった大体同年齢のメンバーと出会うことにもなったのでした。

 

 

 ギター、ボーカルの「寺ちゃん」、ベースの「梶」、ドラムスの「若」、少し後で知り合ったテナーの「奥」、そしてピアノの私。

 

 

 この5人でバンドを組んでナイトクラブやホストクラブを回ったこともありましたし、契約が切れて次の仕事が見つからず、いったん解散して各自別々にアルバイトや他の箱に入ったり、またオーデションを受けるために再結成して練習したり、とそれからの仕事は主にこの仲間との演奏が中心になっていくのですが、冷静に振り返ってみると、仲間との仕事の時間は思い入れの感情が入っているので、実はそんなには多くはなかったのかも知れません。

 

 

 最初にピアノ弾きとして入ったキャバレーは前にも書いたように、飲食店ビルの半地下にあったバンドの控室もないような、はっきり言ってキャバレーでも下のクラスのお店で、逆に言えばそれは私のピアノの腕前に相応しい店だったのですが、でもバンドの仲間に大きな声では言えない仕事場でもありました。

 

 なんといっても休憩できる控室がないのですから、たぶん40~45分の演奏、20~15分の休憩というサイクルだったと思うのですが、その休み時間中には廊下、あるいは外にでたりして過ごすことになるわけで、あのとき廊下に立ってタバコをふかしながらおしゃべりをしていた我々バンドマンはさぞかし、そこを通る通行人や他の店のホステスさんやお客さんの目障りになっていたことだと思われれるのです。

 

 うっとおしい奴等がいつも廊下にたむろしている、ときっとお店にも苦情が行ったことでしょうが、しかし現実に休憩できる部屋が無い以上、廊下でのたむろは解消できないわけです。

 

 ここで仕事をしているときに、寺ちゃんの友達で写真家の卵の人が、一人一人の写真を撮ってそれを大きく引き伸ばし、特殊な板のようなものにその写真(53×42cm)を張り付けてくれるのを特別安い値段で請け負う、ということになり私も2枚作ってもらいました。

 

 そのうちの1枚だけは奇跡的に今でも手元に残っていますが、サングラスをかけてアップライトのピアノに向かう斜め下からの顔には、今ではもうすっかりなくなってしまった天然パーマの髪が黒々と輝いており、確かに半世紀の年月が経ったことを見ごとに証ししているのでした。

クラシックの先生に就いて

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Roy Hargrouve.

 

 

 

 

 

 小樽に帰ってから少し小さ目のアップライト型のピアノを買いました。いま思い出してもとても可愛らしいピアノで、きっともう今は生産していないのじゃないのかなと思われます。

 その後、1年か2年してそのピアノを下取りしてもらい、河合のあの当時80万位のピアノに買い替えたのでした。

 

 そして帰ってすぐに高校時代の同級生だった声楽志望のIさんからバイエルを習い、どの位の期間だったでしょうか、2か月か3か月位、バイエルを卒業してその彼女に札幌のピアノ講師の先生を紹介してもらい、ブルグミューラーとかそういう典型的な初心者コースのレッスンを続けていきました。

 

 

 もう23,4歳の大人になっていましたので、指もすっかり固まっていましたし、何より右利きのまま生活をしてきたのですから、左手の指の動かないこといったら、それはもう呆れるほど自由のきかないもので、特に右手もそうですが左手の中指と薬指はこれはなんというか絶望的に不自由そのもので、いくらゆっくり指を意識して動かしても薬指に力が伝わっていかないのですね。

 

 ひまがあれば中指と薬指だけの二本の指を机の上やテーブルの上でことことと意識して動かしていく練習をやり続けていきましたが、最後の最後までコントロールすることは結局できないままに終わってしまいました。

 

 

 その頃のレッスンを思い浮かべてみると、唯一誉められたのは子供向けの練習曲(湯浅譲二作曲だったか)の中にあったジャズ風の練習曲で、さすがに雰囲気がでていて上手だわと先生に褒められたことが記憶にありますが、それ以外は苦心惨憺、行くたびにがっくりと帰ってくるという光景しか思い浮かびません。

 

 子供のように素直に練習曲に入っていくということはもう出来なくなっていますので、とにかく一応理屈というか理論というか、感性よりもまず論理として納得できなければなかなか先へと進むことができない、という状態がよくあって、たとえば、ピアノって一音、一音打鍵しなければ音が鳴らない楽器ですよね。

 

 管楽器のように息を吹き込んでいる間中はずっと音が鳴っている、という楽器ではないわけで、どんなにスラーと指示されていようと、楽器の構造上は厳密には次の音を鳴らすためには今押している鍵盤から指が離れていかなければ次の音に今の音ががかぶさってしまう訳で、4分音符と4分音符が並んでいるときに、その長さを厳密に守ろうとしたときにはその音の長さには必ず隙間ができることになります。・・・これは勿論理屈です。

 

 どんなに早いフレーズでもピアノは基本的に一音、一音打鍵しなければ音が出てこないのですから、ペダルを使って共鳴させない限り、一音、一音途切れている筈です。ただ私たちの耳には音が切れることなく繋がって聞こえているだけであって、正確な計測をすればそうはなっていない筈だ、というこの屁理屈はしかし、別にレッスンに対して何か良い結果をもたらしたのかと言えばそんなことは全然なく、ただ、私自身の自分の不甲斐なさ(この場合でしたらスラーの表現がうまくできないというジレンマ)をなんとか他の手段で薄めたいという願望の一つの現れでしかなかったのだと、今はそう思います。

 

 とにかく全てが初めての経験だったのですから易しいということはなく、そうですね、例えば左手が4分音符を二つ弾く間に右手は三つの長さに平等に分割して(理屈では割り切れない長さとなるのですが)弾く二拍三連という練習があるとします。

 

 最初の左と右は同時ですが、左の四分音符の音の半分のときに右の二番目の音を出したら、それは八分音符の長さになるのですから、理屈上は八分音符よりもやや長く、けれど四分音符になってはいけない長さでなければならず、しかし実際は数字のように割り切れないのですから、感覚として同時の左右の次に右が鳴ると左の次の四分音符が鳴り、それを聞いて右の三つ目の音が鳴る、という言葉で書けば非常に面倒くさい長い文章となってしまうのですが、しかし実際はジャズやポップスでよく使われる手法なので、馴れれば別にどうということはなく、しかし、それを一人で左右別々に表現しなければならないというところに、ピアノの難しさとおもしろさがあったのでしょうが、初めてそれを表現しなければならない、というのは難しいものでした。

 

 

 そんなこんなでクラシックの先生についてレッスンを続けたのは2年か3年だったでしょうか。最後はベートーベンのピアノソナタ集を買って、私のテクニックで弾ける程度の易しいソナタで終わったのではないかな、と思います。

ピアノ弾きには自分のピアノがない

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Wynton Marsalis.

 

 

 

 

 

 会話しているときに「あのヤノピ(ピアノ)はいい」と言ったときに、そのピアノが楽器を指すのか奏者を指すのかは、話の流れの中で文脈の前後で必然的にわかることなので、決して間違うことはないのですが、大体バンドマン同士が話をするときには、楽器名でその奏者を指すことが多いようです。

 

 前にも書いたようにドラムはたくさんの太鼓やシンバルをセットしなければならなくとも、それらは自分の楽器ですし、ラッパ或いはペットは本体のトランペットのほかにミュートも使いますし、ウッドベースの奏者もあんなに大きな楽器でも自分の楽器ですから、皆さんそれぞれ自分の楽器で演奏するのが当たり前であって、そしてその楽器自体が高価ですから誰もが楽器には神経を注ぎ、あれこれ悩むこともまた当然なことなのですが、特にサックスの人は「リード」の合う、合わないに常に悩んでいましたね。

 

 「リード」は消耗品ですから、そして購入した全てのリードが自分の感覚に合うわけではないので、何枚かはほとんど使われることもなく捨てられてしまう、というも珍しいことではないように見受けられましたし、そうなるとリードの代金の負担も大きいものだなと思って見てましたね。

 

 ラッパでしたらマウスピースが問題になります。

 

 基本、マウスピースの中が浅いのはハイトーンが出しやすいけれど、音色に深みがないし、深めのマウスピースは豊かな味のある音色になるけれどハイトーンは出ずらいというおおまかな傾向がありますから、そのどちらかを選んで吹くというのはなかなか悩ましい問題となるわけです。

 

 

 ところがピアノ(弾き)だけは、そういう自分の楽器にまつわる問題はないのですね。

 

 それぞれのお店に置いてある楽器としてのピアノを、それがどんな状態であれ、とにかく弾かなければならないわけで、音程が狂っていようが弦がたまたま切れてしまったばかりの後とか、自分が弦を切ってしまったとか、そんな楽器としては本来使えない状態のものであっても、調律してから、弦を張り替えてから弾きますということは絶対にできないので、どうやってもその場で弾かざるを得ないわけです。

 

 

 普通あの頃のキャバレー営業時間中に演奏する時間は大体5時間前後だったと思います。

 

 夕方の6時半頃からサブ(控え)のバンドが演奏し、お店自体が深夜の0時前には閉店しなければならなかったので、メインのバンドが11時半とか40分頃に演奏を終えるとすると、毎日大体5時間前後はびっしりと休みなくピアノを使っていることになります。

 

 月に一度の調律ではとても間に合わない膨大な時間量になっているわけで、一週間も経てばどこかしらの音程が狂ってきても不思議ではなく、そうかといってお店にすると余計な経費をかけたくないのは当然なのですから、それでなくとも調律なんてしなくともいいのではないか、と考えている経営者がいてもおかしくないような雰囲気だったので、余計な調律をする訳がなく、そのまま弾くより外に方法がないことになります。

 

 ピアノに転向してから何軒の店を回ったのか、もう今ではどうやっても思い出せないのですが、私が一番最初にピアノ弾きとしてバンドの中で演奏したその店だけはよく覚えています。

 

 飲食店ビルの半地下にあった小さなキャバレーで、そこのピアノはアップライト型でした。

 

 あとは転々としたのですが、その後はアップライト型のピアノはなかったように記憶してます。

 

小さくとも一応グランドピアノが置かれてあったのじゃないかなと思うのですが、トラ(エキストラ;臨時の仕事)で入った小さなクラブはそうでなかったかも知れません。

 

 何人かのピアノの人は調律用のあの固い弦を微妙に調整できる道具を持っていて、余りにもひどく音程が狂ってしまったときには、弦を自分で調律していた人もいました。

 

 まあ、狂ってくると一本や二本ではすまず、コード(和音)を鳴らすと異様な響きになるのですが、しかしやむを得ません。

 

 特に弦を切ってしまうとその弦の音は絶対に出ないのですから、メロディを弾く時にはオクターブ上げるか下げるかしなければ、ぽっかりと穴が開いてしまうので大変なことになります。

 

 慣れている曲ならばいのですが、初見の譜面の場合はその通りに弾いていくので、たまたまピアノがソロを取る場合でも、余裕がないときには弦が切れていることを忘れて、ついそのまま弾いてしまい、音が出てこないまま進行していったということもありました。

 

 

 自分の楽器を持ってそれを演奏するのではなく、自分の楽器ではないピアノを行った先々の店で演奏しなければならないというのは、楽なこともありますが、納得いかないこともままあって、私としては自分の楽器を持ち歩いたほうが良いかなと思っていたものでした。

小樽で仕事をしていたころ

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Esperanza Spalding.

 

 

 

 

 

 

 小樽に帰ったとき、両親は銭函という名前だけは大層な、実は小樽の外れにある小さな町の日本海を見渡せるS商事の寮の賄いをやっていたので、あの頃は余裕があったのでしょう、その寮の一室を私も借りることができ、そこにピアノを置いて昼間は練習、夕方ジーゼル列車に乗って小樽まで行き、そのままキャバレーでセカンドラッパとして仕事をし、夜は寝るためだけに借りた部屋で一夜を明かし、午前中には銭函へと戻り、食事とピアノの練習という日々を(前に2年近く過ごしたと書いたのですが、段々思い出し年齢を計算してみると、どうもそんなにはいなかったようなんです。1年位かも知れませんが、とにかくそうのようにして毎日を)過ごしました。

 

 

 前にも書いたようにこのお店はもともと映画館だったので、外観もそれらしいままでしたし、中の容積も大きくてなかなかの店だった、という印象はあるのですが、今はお店の名前をどうしても想い出すことができません。

 

 逆にもう一軒バンドの入っていた店の名前が「現代」といって、これは名前と外観がまるで一致しない、優雅な昔小樽が繁栄していたときに建てられたであろう、どこかのサロンという趣きの、キャバレーとは絶対におもえない、そのお店の名前の方は鮮明に記憶しているんですね、皮肉なものです。

 

 

 

 小樽にも一軒だけジャズ喫茶がありました。

 

 生活のパターンは大体上に書いた判で押したようなものだったのですが、たまにはそれを崩さないとストレスが貯まり続けます。

 

 多分このジャズ喫茶で知り合ったのでしょう。おもしろい彼氏がいて、年齢は私と同じくらい、仕事は何をしていたのか、していなかったのか、その頃の言葉でいうと常に「ラリッて」いたのです。

 

 当時は睡眠薬を薬局で割と簡単に買えたらしく、その彼氏は昼間から「すりく」を何錠か飲み、本来眠るための薬なのに眠らないで起きているのですから、体と心がふらふらの状態になるわけで、それがまた快感を呼ぶらしく、結局やめられなくなってしまうみたいなんです。

 

 まっ、薬物依存ですね(その頃はこういう言葉はなかったけれど)。

 

 

 バンドの人でも〇〇という睡眠薬や鎮痛剤をやっている人がゼロだったわけではありませんが、それは極々少数のことで、結局はアルコール中毒と同じように仕事ができなくなるのですから、そういう人はいつかしら消えていくものです。

 

 

 その見かけるたびにラリッている彼氏と仲良くなってしばらく経ったある日、彼氏から「ちょっと飲んでみろ」と睡眠薬を何錠か手渡されたことがあります。

 

 好奇心もあり、一度は体験してみたいと思ってもいたので、その「すりく」をもらい受け、すぐ飲んでみました。

 

 薬の種類によって効果が違うことは当たり前なんですが、彼氏が言うには最近手に入りづらくなっているよく効く「すりく」だということで、なるほど、確かに飲んでそれほどしないうちに、なにやら体が揺れて歩くたびにふらふらと「ラリッて」きたのは事実で、これは確かに気持ちのよいものだと納得できたのです。

 

 もちろん、睡眠薬による「らりる」体験はそれ一度だけだったのですが、あのときの彼氏がそれから精神病院に入ったということだけは誰かから聞いてはいても、間もなく小樽を離れたので彼氏とはもう二度と会うことはありませんでした。

 

 

 

 

 

 アルコール中毒(依存)の恐ろしさとその魅惑を描いた「酒と薔薇の日々」という映画がありましたね。その主題歌は今もスタンダード曲としてジャズミュージシャンに取り上げられていますが、人は破滅するのがわかっていても、その魅惑から逃れられないことが往々にしてあるように思われます。

いくら考えても納得がいかない・・

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Miles Davis.

 

 

 

 

 

  約15年間のバンド生活で一度だけ、未だにどうしてだったのか、その原因はわからないまま謎なのですが、そのバンドにいた期間(たぶん3か月くらい)徹底的にいびられた或いはいじめられた或いは無視されたことがあります。

 

 その人とは初めての出会いだったのにも関わらず、まるで代々の親の仇でもあったかのような、もっと言えば過去世からの悪因縁がここで露呈したかのような、そんな具合に私とは口をきいてくれなかった苦い思い出があるのです。

 

 なんだったのでしょうね。

 

 思い出すたびに、けれどその原因にまるで心当たりがないのです。

 

 その時私は札幌でピアノを弾いていました。

 

 トランペットから転向して、そのトランペット時代のバンド経験が生きて、キャバレーで演奏するピアノの譜面にも適応でき、もちろんピアノの技術そのものを言い出したら話にもならないような腕前であっても、ダンス音楽の伴奏という面だけに絞れば、それなりに弾けるようにはなっていたのでした。

 

 何件かのお店も経験して、どこかの箱のバンドとしてギターのバンマスに誘われて加入したのだと思います。

 

 編成はギター、ピアノ、ビブラホーン(ウ”ァイブ)、ベース(或いはベース無し)、ドラムスの5、(4)人だったと思いますが、その私を徹底的に無視しつづけた人がビブラホーン奏者で、その当時の薄野(ススキノ)でも、ウ”ァイブの奏者はごく少なかった筈で、無論私にとっては初めての経験でした。

 

 新しいお店の楽屋で初めて顔合わせした筈なのですが、どうもその辺のところは具体的に思い出せません。

 

 挨拶はどこでもいつでも「おはようございます」で始まるのですが、どうもその日のその顔合わせから、私はその先輩のウ”ァイブ奏者のお気に召さなかったらしく、その日から私と口をきこうとしてくれなかったようなんです。

 

 まあ、どこか生意気なところがあるのは別に私に限ったことではなく、誰もが必ず生意気な面を持っているわけですから、一目見るなり、こいつ生意気な奴だなと思ったとしても、それを露骨に態度にだすことは大抵の場合ないわけで、その感情をちらちら出すにしても朝から晩まで、何の遠慮もなく出し続けると言うこと自体がホントは生意気そのものなんですが、しかし、何と言ってもバンドの世界も長幼の別、先輩、後輩の分別、建前は存在するので、こちらとしては、なぜ自分がこんなに無視されいびられるのかが納得できないまま、そのバンドを辞めるまで我慢せざるを得ないのでした。

 

 

 それにしても未だにわからないままなんです。

 

 会ったとたんに生意気な口をきくことなど、私のような気の弱い人間ができるようなことではなく、ススキノの先輩としての名前はギターのバンマスから聞いていた筈なのですから、ますますそのような失言などは無かった筈なのです。

 

 

 そのウ”ァイブの先輩の言葉として今も鮮明に覚えているのは「アドリブはにんじんよりも大嫌いだ」という、非常に印象に残る一言で、私もニンジンその他野菜は嫌いなのですが、その嫌いなニンジンよりもアドリブが大嫌いと放言して止まない、その言動が私にはちょっと理解できなかった覚えがあります。

 

 私だって、その頃まだ系統だったジャズ理論も習ってはいなくて、コード進行理論も手探り状態だったし、レコードで聞いているようなアドリブとは比べることもできない未熟なものだったにしても、やはりジャズに対する憧れは結局はアドリブへと行き着くのですから、そのアドリブを「ニンジンよりも大嫌いだ」と言い放つその先輩の言葉には抵抗感を覚えたものです。

 

 覚えたにせよ、それは最初の出会いよりもいくらかの時間が経過した後のことだったでしょうから、私がその先輩の言葉に違和感、抵抗感を覚えたことがそのまま態度に出て、そして嫌われ無視された、ということではないのですね。

 

 

 

 私を誘ってくれたギターのバンマスも困ってしまったでしょう。

 

楽屋で私がその先輩に「おはようございます」と挨拶しても、まるで知らんぷり。

 

 私を見ようともせず、一言も言葉を発しないで、私以外の人とは普通に話をするのですから、バンマスに限らず他のメンバーもどうしていいのかわからずに、私とその先輩とを見ていたのだろうと思います。

 

 私もこのままではとても同じバンドのメンバーとしてやっていけないことは明らかになったので、次のバンドを探しましたし、当然バンマスもその先輩とは話をしていたことでしょうし、また私が遅かれ早かれ辞めることは目に見えてもいたでしょうが、どちらもすぐ次のバンド、次のピアノが見つからないまま、大体3か月くらいはそこにいたのだろうと思われるのです。

 

 

 

 何度でも言いますが、なぜ私がその先輩からあのような徹底した無視といういじめを受けねばならなかったのか、何度考えても納得いくような答は出てこないのです。

 

 

 

やはりこれは、過去世からの悪因縁が現在世で露呈したと考えるのが一番ふさわしいのではないのか、とそんなふうに思ってしまうのですね。