音色の不思議

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Michel Petrucciani.

 

 

 

 

 

 

 「音色」という言葉がある。

 

 音の色と書いて、文字通りに受け取ると常識的には「?」となるだろうし、物理的にはあり得ないことになるだろう。

 

 実際、目に音の色が見えるわけではない。

 

見えるわけではないけれど、それぞれの演奏、特に管楽器の演奏を聞いていると、この「音色」という言葉がすんなりと自然に抵抗なく納得されてくるのである。

 

 管楽器はそれぞれの管楽器自体が鳴るのと同時に、演奏している奏者の身体もまた共鳴装置として楽器と共に鳴っている。

 

 ピアノやギターのように弦を打ったり、弾いたりして共鳴箱であるそれぞれの楽器を鳴らす奏法とは異なって、管楽器は一人の肉体と楽器が一体となって共鳴する楽器なので、特に自分の呼吸によって奏法をコントロールしていくので、ピアノやギターとは比べ物にならないくらい、一人一人の楽器から出てくるその音は、一つ一つの音そのものの色がはっきりと区別され、性格が異なるように音そのものも明らかに異なっていて、それらの好き嫌いはそれぞれ全く相いれないものともなってくる。

 

 

 私はマイルス・ディビスの音色に引き込まれてこの世界にはいったので、いわゆるフルバンドのラッパの音、ホール一杯に響き渡る明るいよく鳴る音よりも、くすんだ、少し暗めの音が好きなので、自分もそのような音色を目指してはいたのだが、実際は箱(キャバレー)全体に響き渡るような音でなければ、それぞれのハーモニーとはならないのであるから、自分の好きな音色を追求するような余裕はなかった。

 

 

 

 昨日も書いたようにハイトーンはびゅんびゅん出るけれど、その反動として低音が出なくなってしまったという珍しいトランペッターもいたのだけれど、それとは別の方向、音色の美しさを求める方向へと進んでいった人もいて、時々、その人はどうなったんだろうなあと振り返って思いを馳せたこともあった。

 

 その人の音色はまろやかというか、トランペットというよりもフリュウゲルホーンの音色に近い感じで、実際そういう音色を目指していると言っていたし、ハイトーンはもう出なくていいから、音色で勝負していきたいとはっきり自分の方向を定めていて、キャバレーではなく、もっと大人のクラブで仕事が出来るようになりたいなあと話していたのを覚えている。

 

 そして嬉しいことには、私がその人と別れる前に、そういうクラブから仕事がきていると言っていたので、きっとそういう方向でトランペットを演奏していったのじゃないのかなあと懐かしく思い出すことができる。

 

 

 

 音色の好き嫌いは、もうこれはどう仕様もないことであって、それぞれの人生そのものに何かしら根本的に関わっている、宿命の糸みたいなものじゃないかなとも思わせるものがあって、例えばこれは今も鮮明に覚えていることなのだが、あの頃の「スウィングジャーナル」というジャズ専門誌の中での、ある批評家の評にチェット・ベーカーのトランペットの音色を「風呂場で屁をこいているような音だ。」と断言しているのがあって、私の大好きなチェット・ベーカーの音色をそのようにしか感じられない人がいるその事実にショックを受けたことがある。

 

 しかし、それはもうどう仕様もできない決定的な断絶なのだ。

 

 

その人にはそのようにしか聞こえないし、私には私が聞いているようにしか聞こえない。

 

 

 

 私はその人ではなく、その人は私ではない。

 

 

 

ジャズピアノでは、やはりビル・エヴァンスの音色、演奏が大好きだ。