ピアノに転向したい

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Keith Richards.

 

 

 

 

 

 

 東京で出会った数々の人達の中で、なかでも精神的にも物質的にもお世話になり、支えになってくれた二人の内の一人はテナーサックスの演奏者でしたが、この人は自分自身の目標としてアドリブこそ全てと言っていたとおりに、抜群の才能を発揮して、私と知り合ってほんの一か月かそこらしか一緒に仕事をしなかったのですが、どんどん上のバンドのオーディションを受け続け、受かったと思ったらすぐにまた違うバンドに引き抜かれという具合に、あっという間に当時のラテンミュージックでは日本一と言われていた「東京キューバンボーイズ」という日本の代表的なフルバンドのセカンドテナーとなってしまいました。

 

 

 あの時、縁があってたまたま知り合い、気に入ってもらって千葉の安孫子にある実家にも何度も遊びに行き、食事をごちそうになり、愉快な貴重な時間を過ごさせてもらい、エネルギーをも補給してもらったりもしていたのですが、つくづく才能の差というものを自分のこの眼で見続けていたので、トランペットを続けていく自信は逆に失われていったように思えます。

 

 当時、彼が私に付けたあだ名は「ピテカントロプス」というもので、これはベース奏者のチャールズ・ミンガスという人が作った「直立猿人(ピテカントロプス・エレクトス)」からきたものなのです。

 

 あの頃、男子の長髪は珍しくなく、私も散髪代が節約できるので天然パーマの肩まで延びる長髪だったのですが、その様子が猿人を想起させたのか、知り合ってすぐに「ピテカントロプス」とあだ名されてしまった訳です。

 

 

 少しずつコード進行にも目覚めていき、その響きを耳にしたいとは思っても、ピアノはおろかギターも弾けなかったので、お店に早めに行ってラッパの練習の合間にステージのピアノを借りて、コード進行の真似事をやり始めるようになったのは、3年目当たりからだったでしょうか。なにせ、まともな音が出なかったせいもあって、ポンと押せばとにかく音がでるピアノという楽器に憧れるようになったのかも知れません。

 

 

 バンドを離れる気持ちは全然なく、けれどこのままではトップを演奏することはできないともわかり、そうかと言ってなんとかなるまで練習するという粘り強い気持ちにもなれず、中途半端な思いのままバンドを続けていたのですが、だんだんピアノに転向しようかなという思いが湧いてきたのです。

 

 

 勿論ピアノといってもソロピアノではなく、ダンス音楽として編曲されたリズム隊の一員としての立場のことをいうのですが、技術的なことをいったら切りがないのですから、あくまでもパート譜面を弾きこなすという意味で、ピアノに転向にできるんじゃないかなと思い出したわけですね。

 

 それは数年間のバンド生活から得た一つの自信めいたものでもありました。

 

 

 

 とにかくピアノがなければ練習できません。

 

 ピアノを買うためにはそれ相応のお金が必要です。

 

 しかし今は食べるのに精いっぱいです。

 

 

 そんな時、朝夕の食事と部屋付きでギャラをもらえる、という群馬県水上温泉のあるホテルから仕事がある、という話を聞きました。契約は3か月ということです。

 

 

 飛びつきました。

 

 

 あの当時、まだまだ団体客が次から次へと温泉へ遊びに行っていた余裕のある時代だったので、そういう宴会に専属の歌の伴奏としての仕事があったのですね。

 

 ギターの人がバンマスでした。

 

 バンマスにも歌の人達にも優しく親切にされ、3か月の契約が1年に延びて、初めに思っていた目標額を無事貯金できたので、両親のいる小樽へと帰りました。

 

 

 

 小樽では2年間、夜はキャバレーでセカンドとして演奏し、昼はピアノの先生に付いて「バイエル」から始めました。24歳の時からです。

 

 練習は毎日4,5時間やったと思います。さすがに後が無いことを自覚しています。必死に練習したおかげで2年後には少し指が動くようになりました。